2018年11月30日
2018年は明治維新150年。明治維新について様々な議論が各所で展開されている。維新についての通説は薩摩と長州が中心になって幕府を倒し、維新で「開国」を実現し、富国強兵政策によって欧米による植民地化を阻止したというものだ。たしかに、その時期、アジアで欧米に植民地化されなかったのは日本とタイだけ。タイは王制を維持したものの、実際にはイギリスの支配下にあったので、実質的に植民地化されなかったのは日本だけだということができるのだろう。
維新で国を統合し、富国強兵を急いだのは当然だったし、また、その成果もあがったのだった。明治時代、日本が日清・日露戦争に勝利した時、欧米先進国は驚き、日本を先進国の一員として認めた。特に、日本がヨーロッパの強国ロシアに勝利したことは驚異だったのだ。「坂の上の雲」で司馬遼太郎が日露戦争の勝利を明治日本の大きな成果だったとしたのはその通りだったのだろう。
ただ、維新で薩摩や長州が中心となって開国政策をとったというのは必ずしも正確ではない。開国政策を積極的に推進したのは江戸幕府の側だったのだ。
阿部正弘は1857年老中存任のまま江戸で急死しているが、彼の後を継いだ堀田正睦、さらには井伊直弼が開国政策を引き継いでいる。井伊直弼は安政の大獄で知られるが、安政の大獄は開国政策に反対する尊皇攘夷派の大名・公卿・志士等を弾圧したものだったのだ。時の天皇、孝明天皇は攘夷派のトップ。1858年、水戸藩に対して戊午の密勅を発し、攘夷政策の推進と幕政改革を命じたのだった。安政の大獄はこれを知った井伊直弼による報復。橋本左内・梅田雲浜・吉田松陰等の尊皇の志士達が捕えられ処刑されたのだ。明治維新が薩摩・長州等の反幕府勢力によって達成され、彼等がその後の政策の主導権を取ったため、井伊直弼等は糾弾されるのだが、開国政策は適切な政策だったし、維新後も継続されたのだ。
開国政策を積極的に進めた幕臣達は明治維新後も政府の重要な役割を担っていったのだった。勝海舟は海軍卿になり伯爵に叙されているし、榎本武揚は外務大臣・文部大臣・農商務大臣等の要職を歴任している。渋沢栄一は大蔵省、津田真道は司法省、西周は兵部省・文部省等で活躍している。
また、明治政府の勅任官・奏任官の合計のうち31%が旧幕臣であり、旧薩長藩士の19%を大きく上回っている。ただ勅任官では53%が薩長、10%が旧幕臣だった。つまり、顕職の半分以上は薩長によって占められていたのだが、全体を見ると旧幕臣が3割以上と薩長を大きく上回っていたのだ(数字は明治7年のもの)。なお、明治7年の時点でも薩長、旧幕臣以外が全体の50%だった。明治政府が全国から俊秀を集めたのだ。ちなみに司馬遼太郎の「坂の上の雲」の秋山好古、秋山真之は松山藩の下級武士秋山久敬の3男及び5男だった。
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