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 2018年は明治維新150年。明治維新について様々な議論が各所で展開されている。維新についての通説は薩摩と長州が中心になって幕府を倒し、維新で「開国」を実現し、富国強兵政策によって欧米による植民地化を阻止したというものだ。たしかに、その時期、アジアで欧米に植民地化されなかったのは日本とタイだけ。タイは王制を維持したものの、実際にはイギリスの支配下にあったので、実質的に植民地化されなかったのは日本だけだということができるのだろう。

 維新で国を統合し、富国強兵を急いだのは当然だったし、また、その成果もあがったのだった。明治時代、日本が日清・日露戦争に勝利した時、欧米先進国は驚き、日本を先進国の一員として認めた。特に、日本がヨーロッパの強国ロシアに勝利したことは驚異だったのだ。「坂の上の雲」で司馬遼太郎が日露戦争の勝利を明治日本の大きな成果だったとしたのはその通りだったのだろう。

 ただ、維新で薩摩や長州が中心となって開国政策をとったというのは必ずしも正確ではない。開国政策を積極的に推進したのは江戸幕府の側だったのだ。

拡大勝海舟
 黒船来航(1853年)の時の老中首座は阿部正弘。日米和親条約を締結し、精力的に開国にむけ様々な政策をとっていったのだった。一つは、海防に詳しい人材の登用、高島秋帆・永井尚志等ともに勝海舟を抜擢したのは阿部正弘だった。また、彼は講武所や長崎海軍伝習所、洋学所などを創設している。後に、講武所は日本陸軍、長崎海軍伝習所は日本海軍、洋学所は東京大学の前身になっている。

 阿部正弘は1857年老中存任のまま江戸で急死しているが、彼の後を継いだ堀田正睦、さらには井伊直弼が開国政策を引き継いでいる。井伊直弼は安政の大獄で知られるが、安政の大獄は開国政策に反対する尊皇攘夷派の大名・公卿・志士等を弾圧したものだったのだ。時の天皇、孝明天皇は攘夷派のトップ。1858年、水戸藩に対して戊午の密勅を発し、攘夷政策の推進と幕政改革を命じたのだった。安政の大獄はこれを知った井伊直弼による報復。橋本左内・梅田雲浜・吉田松陰等の尊皇の志士達が捕えられ処刑されたのだ。明治維新が薩摩・長州等の反幕府勢力によって達成され、彼等がその後の政策の主導権を取ったため、井伊直弼等は糾弾されるのだが、開国政策は適切な政策だったし、維新後も継続されたのだ。

拡大英国で撮影された「長州ファイブ」。(前列左から)井上馨、山尾庸三、(後列左から)遠藤謹助、井上勝、伊藤博文=萩博物館蔵
 西郷隆盛は維新後、「攘夷は幕府を倒すための口実だった」と述べているが、西郷自身、ある時期まで攘夷を奉じていたのではないだろうか。西郷隆盛や木戸孝允(桂小五郎)等が攘夷から開国に転じるのは、薩英戦争(1863年)、下関戦争(1863~64年)等の攘夷戦争で薩摩・長州両藩が大敗北を喫し、攘夷が不可能なことを悟り、逆にイギリスに接近するようになってからだ。長州も薩摩も長崎の政商トーマス・グラバーの手引きによってイギリスに留学を果している(長州はいわゆる長州ファイブ=伊藤博文・井上馨・遠藤謹助・山尾庸三・井上勝、薩摩は五代友厚以下で19人)。

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筆者

榊原英資

榊原英資(さかきばら・えいすけ) 青山学院大学特別招聘教授、エコノミスト

1941年生まれ。東京大学経済学部卒、1965年に大蔵省に入省。ミシガン大学に留学し、経済学博士号取得。1994年に財政金融研究所所長、1995年に国際金融局長を経て1997年に財務官に就任。1999年に大蔵省退官、慶応義塾大学教授、早稲田大学教授を経て、2010年4月から青山学院大学教授。近著に「フレンチ・パラドックス」(文藝春秋社)、「ドル漂流」「龍馬伝説の虚実」(朝日新聞出版) 「世界同時不況がすでに始まっている!」(アスコム)、「『日本脳』改造講座」(祥伝社)など。

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