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多様性を認め合う 定住したインドシナ難民たち

日本社会にすでに定住した人々は新たに来日する外国人をどう見ているのか

岩崎賢一 朝日新聞記者

「『難民』という言葉は私にとって差別用語に感じられました」

 2001年6月1日発行の難民事業本部ニュース「ていじゅう」には、日本語スピーチコンテストの「在日5年以上」の部門で最優秀賞に輝いた松橋さんのスピーチが掲載されている。専門学校生の時のものだ。松橋さんに許可をもらい、少し紹介したい(カギ括弧の言葉はスピーチから引用。他は要約)。

「日本に来るまで私は、カンボジアで内戦が起こっているということを知りませんでした」
 神奈川県大和市にあった大和定住促進センターで8カ月間、日本語や日本での生活を学んだ。その後、家族で暮らした川崎市のアパートで、父親が激しい腹痛で倒れた。片言の日本語しか話せない家族を助けたのは、同じアパートに住む日本人やセンターの職員だった。
 日本語が分からないまま小学3年に編入したが、友だちができなかった。「タイで好奇心旺盛だった私は、この時、自信をなくした感じがしました」
 運動会がどういうものか知らず、学校からの手紙も読めず、両親は来られなかった。通学途中に1学年上の児童が「難民がきたー!」と言うのが聞こえてきた。松橋さんは「難民って何?」と尋ねたそうだ。
「その答えを初めて知ったときにとても大きなショックを受けました。『難民』という言葉は私にとって差別用語に感じられたのです」
 小学校、中学校、高校と卒業し、将来の夢を見据えて専門学校に進学した。多くの壁を乗り越えてきた。そして、このような胸中に達した。
「私にとって日本は第二の母国です。私はカンボジア人で日本人なのです」

 松橋さんはこのような経験を踏まえ、「外国籍の子どもが、日本語が分からない中で、日本人と同じように学校生活を送ることに無理があります」と指摘し、サポートを手厚くする必要があると強調する。

拡大最優秀賞をとったスピーチの内容が載った冊子の写し=松橋さん提供

 両親は家の中でカンボジア語を使っていたが、中学生のとき、カンボジア語で文章が書けないことに気付き、勉強を始めた。カンボジアの伝統舞踊も習い始めた。伝統舞踊は「日本にいる私がカンボジアとつながれる一つ」という存在にまで大きくなった。

 NPOでも伝統舞踊教室を担当している。「今度は自分が子どもたちに伝える側。日本で暮らす子どもたちにも、カンボジアとつながっていることを知って欲しいし、それが誇りにもなっていくと思います」と話す。

 松橋さんが日本国籍を取得したのは、就職試験で壁を感じたからだ。

 あこがれの職業である外資系企業の採用条件に「日本国籍を有する者」という記載があった。松橋さんはその後、よりよい企業への就職を考え、アジア福祉教育財団難民事業本部のサポートを受けて日本国籍を取得した。日本の学校教育を受け、難民認定もされていたうえ、難民事業本部のサポートがプラスに働いたと思われる。

拡大松橋南里さんと子ども

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筆者

岩崎賢一

岩崎賢一(いわさき けんいち) 朝日新聞記者

1990年朝日新聞社入社。くらし編集部、政治部、社会部、生活部、医療グループ、科学医療部などで医療や暮らしを中心に様々なテーマを生活者の視点から取材。テレビ局ディレクター、アピタル編集、連載「患者を生きる」担当を経て、現在はオピニオン編集部で「論座」編集を担当。『プロメテウスの罠~病院、奮戦す』『地域医療ビジョン/地域医療計画ガイドライン』(分担執筆)。 withnewsにも執筆中。

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