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高すぎる「義務教育の保護者負担」

高等・幼児教育の無償化どころか、憲法が掲げる義務教育の「無償性」も実現していない

髙橋 哲 埼玉大学准教授

Anna Nahabed/Shutterstock.com

安倍政権の目玉政策「教育無償化」

 2018年の春に、銀座に所在する公立小学校が、ある高級ブランドの制服を採用したことが大きな話題となったことは記憶に新しい(「公立小『アルマーニデザインの標準服』を導入」)。

 たしかに、成長著しい小学生の保護者に、高すぎる制服の購入を求めることは、一般常識からみても疑問視されるところである。しかしながら、ここで問いたいのは、この公立小学校における制服問題は、「高すぎる」から問題なのかという点である。

 そもそも、日本の公立学校は、話題となった銀座の小学校に限らず、多くの教材費や給食費、修学旅行費などを当然のように保護者に負担させている。このことに問題はないのだろうか。

 これが小論の課題である。

 ところで、昨年(2018年)年12月28日に、「幼児教育・高等教育無償化の制度の具体化に向けた方針」が関係閣僚会議において了承された。高等教育と幼児教育の「無償化」政策は、現政権の目玉政策と位置付けられ、また、その実現を名目に、日本国憲法の改正案も浮上している。

 高等教育、幼児教育の負担軽減は、奨学金の「ブラック化」や「待機児童」問題が社会的に注目を集める中、政治的には格好のアピールであり、一定、積極的に評価される側面もあるといえるだろう。

 このような政治状況のもと、小論ではあえて、「高すぎる制服」問題で顕在化し、政治的には「忘れられた争点」となっている「義務教育の無償性」をめぐる問題に焦点をあて、安倍政権の掲げる教育の「無償化」政策をめぐる論争に一石を投じたいと思う。(現行の高等教育、幼児教育の「無償化」政策については、世取山洋介「教育の『無償性』と『無償化』」教育科学研究会『教育』第870号、かもがわ出版、2018年)

憲法は義務教育を「無償」と定めるが…

 周知のように、日本国憲法26条は、「教育を受ける権利」を定め、教育を人間に欠くことのできない人権として位置づけている。

憲法第二十六条
1項 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2項 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。

 「教育を受ける権利」は、公定英訳では“right to receive an equal education”とされており、直訳すれば「平等な教育を受ける権利」を意味している。すなわち、憲法26条1項は、平等に教育を受けることを権利として定め、2項はこれを保障するための方途として「義務教育の無償」を宣言しているのである。

 「義務教育の無償」は、字句通りに読めば、就学に必要な一切の費用を無償にしているようにみえる。しかしながら、実際には、日本国憲法施行以来、保護者による多額の私費負担に依存した義務教育制度が形成されてきたのである。

 2009年に発行された『子どもの貧困白書』は、無償であるはずの義務教育において、保護者による多大な私費負担が求められていることを、学校事務職員の調査により明らかにしたものである(子どもの貧困白書編集委員会編『子どもの貧困白書』明石書店、2009年、156-159頁)。某県公立中学校では、体操着、制服、給食費、修学旅行積立金、教材費などを含めて、入学年度に約25万6千円の私費負担が必要であることが示されている。

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 全国的な傾向をみても、文部科学省の実施する『子供の学習費調査』よれば、学校への保護者負担を示す学校教育費と給食費の合計は、最新版2016年度の調査において公立中学校で17万7370円、公立小学校で10万4484円にのぼっており、高額な私費負担の存在が示されている。

教育基本法で「国公立」「授業料」に限定された「無償性」

 日本の最高法規である憲法が、「義務教育は無償とする」と宣言していながら、なぜこのような保護者による私費負担が常態化することになったのか?

 このような、私費負担を生み出している現行法制を次に概観したい。

 すでにみたように、憲法が率直に「義務教育の無償」を宣言するのに対し、法律レベルになると、教育基本法第5条4頁(旧法4条2項)は、「国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料を徴収しない」と定めている。

 ここでは、「無償性」の範囲が2重に制限されており、まず、学校種が国公立学校に限定され、さらに、無償の対象が授業料の不徴収に限定される。これにより、1947年の学校教育法の制定に伴い戦後義務教育制度が発足して以降、ながらく、教科書さえも保護者が負担する状態が続いていたのである。

 教科書が無償となったのは、1963年にいわゆる教科書無償措置法が制定されて以降のことである。この法律により、国公私立の義務教育諸学校の教科書が無償給付されることとなった。

 しかしながら、無償給付の条件として、①広域採択地区での同一教科書の採択、②4年間の同一教科書使用義務、さらには、③教科書発行者の文部大臣指定制など、教科書の国家統制のための仕組みが内包されたのである。

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 義務教育の無償性をめぐる法制度は、この国公立学校の授業料不徴収と教科書の無償給付という基本路線が今日も続いている。

 もちろん、各自治体の裁量により、教材費や給食費などを公費負担する取り組みも存在しているが(これらの動向については、保護者負担金研究会編『保護者負担金がよくわかる本』学事出版、2015年に詳しい)、それらはいずれも自治体の財政力と政治判断に委ねられており、国家政策として「義務教育の無償」を前進させる取り組みはなされないままとなっている。

「無償」をめぐる憲法解釈論争

 では、最高法規である憲法が「義務教育の無償」を宣言していながら、なぜ私費負担が法律レベルで認められてきたのか?そこには、「無償」の範囲をめぐる憲法解釈論争が関係してきた。

 憲法26条2項の解釈をめぐっては、現在、主に二つの学説が争われている。

 その一つが、「授業料無償説」である。この解釈は、憲法26条が示す無償の範囲は、国公立学校における授業料の不徴収を意味するものであり、その他の費用については、時の立法政策に委ねられるとする。1964年の最高裁判決が、「無償とは授業料不徴収の意味と解するのが相当である」(最大判昭和39・2・26)と判示し、憲法26条2項の解釈に授業料無償説を採用したことから、現在の通説とされている。

 これに対し、近年、子どもの貧困の広がりのなかで注目されているのが、「修学必需費無償説」である。この説は、憲法の条文を字義通りに解釈し、無償の範囲は、「修学に必要な一切の費用」であると解釈する。この代表的論者である永井憲一は、憲法26条2項について、「単に『就学』のための授業料の不徴収にとどまらず、その『修学』までに必要とする全費用を無償とすべきである」と主張したのである(永井憲一『憲法と教育基本権〔新版〕』勁草書房、1985年、91頁)。

 ところが、この就学必需費無償説は、憲法学においては批判の対象とされてきた。

 憲法学の重鎮であった奥平康弘は、親の権利に伴う責任論を持ち出し、「教育に要する費用のなにがしかを、親自身の負担とすることはそう不合理なことではない」とした。そのうえで、教育の無償性と社会保障を混同すべきでないとして、「経済上の理由による未就学児・生徒の問題は、教育扶助・生活扶助の手段によって解決すべきである」と主張したのである(奥平康弘「教育を受ける権利」芦部信喜編『憲法Ⅲ人権(2)』有斐閣、1981年、378-379頁)。

 この批判の趣旨は、経済上の理由によって生じる問題は、全面的な無償措置によってではなく、貧困家庭に特化した個別の教育扶助等によって対応すべきという点にある。実際に、学校教育法19条には、「就学援助制度」が定められており、経済的理由により就学困難な児童生徒には、個別対応を行うという仕組みがとられている。

 問題は、就学援助が実際に経済的困難な家庭の子どもを救済しているのかという点にある。

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経済的困難な家庭を救済していない実態

 就学援助の法的特徴をみるならば、学校教育法19条は、最小自治体である市区町村にその責任を委ねている。これに対して、国の役割は、「予算の範囲内において、これに要する経費を補助する」と定められるにすぎない。このような構造のもと、就学援助には以下のような問題が生じている。

 第一に、就学援助「制度」の格差をめぐる問題である。

 就学援助の基本的制度設計もまた市区町村の裁量に委ねられていることから、運用に不可欠な要綱や内規などを持たない自治体や、就学援助の存在を保護者に知らせていない自治体の存在が指摘されている。就学援助を利用する「入口」における自治体間格差が生じているのである(自治体格差の実態研究として、湯田伸一『知られざる就学援助』学事出版、2009年)。

 第二に、就学援助の受給要件の厳格化の問題があげられる。

 かつては一定の収入を有していても扶養家族が多い場合には就学援助の対象となっていた。これが近年では生活保護を外れた直後の収入状況にある者や、国民年金保険、国民健康保険が免除されている者など、極度な困窮状態にないと就学援助を受給することができなくなっている。

 たとえば、国民年金保険料の免除という要件は、子ども一人を扶養する一人親家庭が、もっともハードルの低い1/4免除を受けることを想定した場合でも、年間所得目安額が247万円とされている。厚生労働省の「平成29年国民生活基礎調査の概況」によれば、全世帯の平均年間所得は560万2千円とされており、この平均所得と比較しても、就学援助を受給するための要件が極度に厳格化されていることが分かる。

 第三に、就学援助の受給額の問題がある。

 上記の厳格な要件を満たし就学援助を受けられたとしてもその受給額は少額にとどまり、すべての費用が補填されているわけではない。たとえば、著者の勤務地である埼玉県内唯一の政令指定都市であるさいたま市でも、2018年度の学用品費の最高額が中学校2、3年生の年額2万6820円、最低額の小学校1年生で1万2990円とされており、先にみた平均的な私費負担でさえカバーすることができていない。

 第四に、就学援助受給者の増加により、上記の問題が悪化する状況が存在している。

 文部科学省の「就学援助実施状況等調査」によると、就学援助率は2011年度の15.58%をピークに、公表されている最新統計の2015年度においても15.23%で、6人に1人が就学援助を受けるという高止まり傾向を示している。このような状況のもと、市区町村は財政上の制約から、受給要件をさらに厳格化したり、あるいは、支給額を減額して対応せざるを得なくなっている。

 このように、就学援助には制度構造上の問題があり、また実態としても経済的困難な家庭を救済するものとはなっていない。就学援助率の高止まりは、もはや貧困や経済的困難の家庭をめぐる問題が「例外」ではなく、義務教育全体をめぐる問題となっていることを示している。

改憲よりも憲法の実質化を

 冒頭に述べたように、2017年10月の衆議院総選挙において、多くの政党は、高等教育と幼児教育の無償化を高らかに公約として掲げていた。

 しかしながら、現在論議されている「無償化政策」もまた、高等教育と幼児教育を「有償」とした上で、保護者の私費負担を軽減するための現金給付を主体としている。また、その最大の問題として、義務教育段階における無償性が、あたかも既に実現されたかのように把握され、多額の保護者負担を放置するものとなっている。

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