幸せはいい方向に大きく変わった時に感じる。今幸せだと思う人には変化がない
2019年02月10日
佐山展生(さやま・のぶお)
インテグラル株式会社代表取締役、スカイマーク代表取締役会長、一橋大学大学院経営管理研究科客員教授
1953年、京都市上京区生まれ、洛星高校、京都大学工学部高分子化学科卒業。ニューヨーク大学大学院(STERN)修了(MBA)、東京工業大学大学院社会理工学研究科博士後期課程修了(博士(学術))。76年、帝人入社。87年、三井銀行入社。99年、ユニゾン・キャピタル共同設立代表取締役。2004年、GCA共同設立代表取締役。07年、インテグラル共同設立、08年、代表取締役(現任)。15年、スカイマーク代表取締役会長(現任)。
一橋大学大学院経営管理研究科客員教授、京都大学経営管理大学院客員教授、関西大学経済学部客員教授も務める。
「生き方と哲学」(講談社刊)を選んだのは、かなり若いころから、ビジネスで行き詰まったら、哲学だと思っていたからでした。
この本を書いた鬼界彰夫さんは、たまたま京都の洛星中学・高校の同級生なんです。中学1年のとき同じクラスだったのを覚えています。そのときから優秀だったんです。
彼は中学1年からもう人生について考えていました。私は30歳で初めて人生について考えたんです。えらい違いなんですね。それ以来、私もずっと哲学に興味あったんで、今回、彼の本を読もうと思ったんです。
鬼界さんは今、筑波大学で哲学の教授をしているので、筑波に行って話を聞いてきました。会ったのは40年ぶりくらいです。解説してもらって、いろんなことが分かりました。ま、私の勉強不足でもあるんですが。
まず、知らなかったことは古代ギリシャの哲学者、ソクラテスのことです。彼は本を書いたことがないってご存じでした? 哲学書を書いたイメージがあるでしょ。
でも、ソクラテスは書いてないんです。自らがいかに生きるべきかを考えて話したことを、プラトンやアリストテレスやいろんな人たちが、「ソクラテスはこう言っていた」と体系化していって学問になっていったというんです。
その後、いろんな哲学論が出てきましたが、キルケゴールでまた原点に戻ったんだそうです。ソクラテスみたいに、「自らがいかに生きるべきか」というところに戻ったと教えてもらいました。
もうひとつ知らなかったことは、有名な投資家のジョージ・ソロスや、経営学者のドラッカーは哲学を学んでるんです。彼らはそういう基礎をちゃんと持っていたんですね。そんな話を鬼界さんから聞いたんです。
ドラッカーの本は日本でもすごい長いこと売れてるでしょ。ちょっと思いついて書いて、ぱっと売れてるようなビジネス書とは違うんですよ。
おもしろいと思ったのは、鬼界さんは本にも書いていますが、仕事とプライベートは違うと言うんですよね。仕事をする「社会的時間」と「私的時間」の二つを分けるべきだと。
しかし、私は若い人たちに、「公私一体」をおすすめしてるんです。仕事は仕事で、プライベートは別世界というんじゃなくて、これら二つの線引きが難しい方が理想じゃないかと言っているんです。働かされている感があればあるほど、二つが分かれて、ワークライフバランスっていう話になります。そうじゃなくて、自分がおもしろいと思って仕事していたら、そこに境界線ってなくなってくるんです。
そう思っていたんですが、鬼界さんと私は生き方が違うということが分かりました。実際、生きてきた道も違いますからね。鬼界さんにとっての社会的時間は、たとえば学生の成績をつけているときだとか、授業しているときだと言うんです。
私も大学院で授業をしていますが、やらされていると思ったことは一度もないんです。言いたいことを言っているからでしょう。
いかに生きるべきかを考えるには、世界の現状を知らないといけないと思って「FACTFULNESS(ファクトフルネス)」(日経BP刊)を読みました。実におもしろい本です。哲学書と違って読みやすいです。
三択ですから、チンパンジーが選んでも33%は正解するんです。しかし、チンパンジーに勝った人は、わずか10%なんですよ。いくら教養があっても、ちゃんと教育を受けてきても、ダボス会議に出る人であろうと、まったく関係なくみごとにはずすんだそうです。みんな、それほど現実を分かってないということなんです。
なぜそうなのかというと、「ファクトフルネスの大まかなルール」を読むと分かります。
まず「分断本能を抑える」。わかりやすい例でいうと、“先進国と後進国”のように何でも二つに分けがちなんだと。そうじゃなくて、その中間がいっぱいあることを忘れている。また、「犯人捜し本能を抑える」というのがあるのですが、何か問題が起きたときに犯人捜しをして、それで終わっちゃうのではなく、本来すべきなのは、問題を起こさないようにどうシステムを変えるかだというのです。
世界の、今のファクトをしっかりとらえるべきだと書いてあります。そうすれば、いかに生きるべきかということも変わるはずなんですよね。人生のステージが変わっていくように、国も変化するし、環境も変化するわけですから。ということでね、哲学と現状をふたつ合わせてみると、実におもしろいな、ということに気がついたのですね。
スカイマークの航空業界で言えば、飛行機事故の死者数はとんでもなく減っているんです。飛行機が増えたから、危ないんじゃないかと思いがちですけど、年間4千万機が死者を1人も出さずに目的地に着いています。
ひとつのニュースだけで、これは大変だと思うんじゃなくて、過去からの推移とか、何かとの比較でとらえないといけないということをどうしても忘れがちなんですよね。ものすごく勉強になりました。
私はよく「人生は自作自演のドラマ」だと言っています。
32年くらい前、知人の結婚式に出たら色紙がテーブルに回ってきて、何を書こうかなと考えたときに、思いついて書いたんです。今でこそいろんなところで言っていますが、私自身30歳までは人生について何も考えてなかったんです。言われたまま、流されるままに生きていました。
京都の洛星中学に行ったのは、親が行けって言うから受けただけなんです。受かりましたが、たぶん、ぎりぎりだったと思います。病気で小学5年の3学期と6年の1学期を自宅で絶対安静で休んだこともあって、受験勉強なんてしてないし、塾にも行ってないし、模擬試験も受けたことがないんです。
大学も親から「うちはお金ないから」と、下宿だめ、浪人だめ、地元の国立に行けと言われて、京大しかないでしょ。高校3年の夏の甲子園京都府予選の準々決勝で花園高校に逆転サヨナラ負けするまでは、朝練から始まり日が暮れるまで野球しかしてなくて、疲れ果てて帰ったら、おなかがすいていても、風呂にも入らずにとにかく寝る。夜中に起きて、ちょっと食べてまた寝るような生活をしてたんですね。
中間試験、期末試験も見事にすべて一夜漬けでした。朝まで勉強するんですけど、8時14分に自転車に乗って出るんですね。近いとはいえ、学校に8時20分までに着くにはぎりぎりなんです。雨でも雪でも競輪の選手みたいに必死でこいでいくんです。
もちろん、試験の範囲は一晩じゃ勉強しきれないので、いつも積み残して受けるんです。いつも「あと1時間あったら15点上がるな」と思っていました。別に物理でも数学でも分からないわけではないから、大学入試は勉強さえすれば受かる、要はやるかやらんかだけだと。
とはいいながら、大学の受験勉強をやる気になったのが、高3の11月の10日ごろです。本当におしりに火がつかないとやる気にならない。当時、京大の入試は3月1日~3日の一発勝負です。建築家になって設計事務所をしたかったので、工学部の建築学科を受けようと、物理と化学と数学だけを、もうむっちゃくちゃ勉強したんです。年明けには、五分五分で受かりそうだなと思うところまできました。
そうしたら、2月19日に連合赤軍が浅間山荘に立てこもって警察と銃撃戦になる事件があり、テレビでずっと生中継していたんです。目が離せないのでずっと見ていました。そのせいにしているのですが、第一志望の建築学科にはちょっと点数が足りず落ちました。
入学願書に第二志望を書く欄があったので、空けておくのももったいないなと思って高分子化学と書いたら、そこに受かったんです。点数の1割をカットしても、第二志望の合格点に達していたらそこに合格できる仕組みだったんです。でも全然行く気がなかったので、京大に行って合格を確認した後、近畿予備校の願書をもらって帰ったんですが、祖父母や親戚などから、「京大受かったんやてな、おめでとう」と祝福されました。
周りは京大なら、学科なんかどうでもいいんですから。あまりにみんなにおめでとうと言われて、浪人もめんどくさいなあ、じゃあ行くかと。だから、18歳でも行きたい道じゃない道に行ってるんです。
ですから、高分子化学では、研究者になりたいわけでもなかったので最初から就職希望で、当時は就職活動もなく、先生が言う通り帝人を受けておしまい。まったく私の意志は何にもないんですよ。その代わり、帝人に入社して愛媛県松山市の工場でポリエステルの重合工程に配属になってから、最初の3年間は三交替勤務もして、本当に一生懸命頑張ったんです。
ところが、30歳で初めて、「あれっ」と思った。ずっと一生懸命働き続けて、どうしたら社長になれるのか考えてみました。しかし、社長への道など分からないのがサラリーマンだなと分かったんですよね。
社長にならない限り、取締役にならないとか何かの役職にならないで会社を出ていくことになるのですが、そのときに恐らく、「こんなに実績上げて頑張っているのになんでだめなんですか?」と言うに違いない。しかし、それは言っても仕方がないことなんだと気がついたんです。そうなったときに、ずっとそこにいたことを絶対後悔するなあと思ったんです。
帝人を辞めてだいぶ経ってから読んだのですが、帝人の社長になられた安居祥策さんが、2009年の日本経済新聞の「私の履歴書」で、社長になるかならないかは100%運だと仰っていました。まさにそのことに30歳で気がついたんです。
当時は今のように転職市場自体がありませんでした。大学を出て会社に入って、それでおしまい。こんな世の中はおかしいと思ったんですね。しかし食べていかないといけないので、司法試験を受けることにして、帝人で働きながら、カセットテープで通信教育の講義を聞いて、生まれて初めて面白いので真剣に勉強しました。
そして択一の願書を出したのが、33歳の春です。そのときにたまたま当時の三井銀行が中途採用を募集していることを知り、自分が別世界の銀行の人にどう評価されるのか興味を持ったので応募してみることにしました。その面接で初めて「M&A」というのを聞いて、面白そうなので、まったくブラックボックスの銀行に行くことにしました。
しかし、会社の人達は全員反対でした。何が不満なんだと言われました。そして、誰一人として、私の転職をよかったねと言ってはくれませんでした。みんな「何考えてんねん」という感じです。その時に気づきました。自分の人生は自分で決める、そして、転職は利害関係者に説明責任はあるが、説得するのは難しくその説得責任まではないと。自分の人生ですから。
その後にあった知人の結婚式で、「人生は自作自演のドラマ」と書いたんです。自分の体験から出てきたんです。それまでは言われたことしかやってなかったんです。他人が書いたシナリオ通りに演じてたんです。30歳で初めて自分でシナリオを書かないといけないと感じて、書き始めたんですね。
銀行に入って、3年間東京でM&Aやって、おもしろくて、これは天職だと思いました。その後、希望してニューヨークに転勤させてもらったのですが、いろんなことがあって、「この野郎」、これはやってられんなあと。
若い人たちによく言うんですけど、「毎日幸せです」「満足です」という人は飛躍しないんです。変えようと思わないですから。「ええかげんにせえよ」「この野郎」と思うところから、別世界への切符が届くんですよ。それに気づくかどうかなんですけどね。
私はニューヨークでも「この野郎」と思ったので、MBAを取るためにニューヨーク大学大学院(STERN)の夜間に勝手に通うことにしました。38歳のときで、悩みました。当時、MBAを取ろうと夜の大学院に行っている人のほとんどは、20代のアメリカ人なんです。38歳の日本人なんていないんですよ。英語も苦手だし。
だけど、人生は一度きりです。
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