点数競争が過熱し、NY州では24万人の親が拒否。誰のため、何のための学力調査か
2019年02月27日
私たちは、「学力向上」の名の下に子ども達を追い詰めてはいないだろうか。
2014年、アメリカで、泣きながら宿題をする7歳児の写真がソーシャルメディアを駆け巡った。その写真には、写真家でもある母親の言葉が添えられていた。
「これは私の娘…そしてこれは彼女を撮った中で、私が嫌いな初めての写真」
この写真が人々の共感を呼んだ背景には、アメリカで過熱する学力テストの点数競争、模擬試験や宿題の激増、そして子どもへの重圧を懸念する世論の高まりがあった。
この写真を見た日本のあなたは、何を感じるだろうか。
同じようにしんどい思いをしている子が、実は周りにもいるのではないだろうか。
一つ、思い出すことがある。2016年に広島で行われた教育シンポジウム(参照:『ゼロ・トレランスの今から、学校・教育を問う』(2016年11月19日)ゼロ・トレランスを考える実行委員会)で、会場をどよめかせた大阪のある教員の発言だ。
大阪府は、府が独自に取り入れた「チャレンジテスト」という学力テストを行っている。ある教室では、テスト前日に成績の悪い生徒が、翌日は学校を休もうかなと言ったら、周りから拍手が起きたというのだ。大阪府のチャレンジテストは、生徒個人だけでなく、個々の中学校にまで偏差値が算出され、それが生徒たちの高校受験に影響を及ぼすのだ。
今、日本全国の地方自治体が学力テストの点数競争に躍起になっている異常な状況がある。全国学力調査に加え、全体の約70%の都道府県が大阪のように独自の学力テストを実施し、さらには85%の政令指定都市までもが市独自のテストを行っている。
再任用で今も働く退職教員は、現在の異常な状況をこんな風に説明した。
「むかし教員は、全国一斉学力テストの直前に学校で行う試験対策を『ドーピング』と揶揄したものだが、今はまるで『シャブ漬け』状態だ」
全国学力調査が全員参加方式で再開された2013年を境に、子どものいじめ、不登校、校内暴力、そして自殺が増加し続けている(参照:子どもの権利条約市民・NGO報告書をつくる会(2018年)『日本における子ども期の貧困化:新自由主義と新国家主義のもとで』)のは単なる偶然とは思えない。
それを懸念するように、国連子どもの権利委員会は、つい先日発表した日本政府に対する意見書で、「生命、生存および発達に対する権利」に関して、次のように日本政府に勧告している。
「子どもが、社会の競争的性質によって子ども時代および発達を害されることなく子ども時代を享受できることを確保するための措置をとること」(こちら参照)
そもそも、全国学力調査はもはや単なる「調査」ではなくなっている。
規制緩和によって地方自治体と学校別の成績開示が可能になったことで点数競争が起き、政治家が教育委員会に、教育委員会が教員に、そして教員が生徒にプレッシャーを与えるような歪んだ構造が生まれたのだ。
2013年には、静岡県知事が、全国学力調査で成績の悪い県内の校長名を公表すると脅して世間を騒がせた(実際には上位86の小学校の校長名を発表)。福井県議会が2017年3月に起きた県内の中2男子自殺事件に関して発表した意見書では、「『学力日本一』を維持することが本県全域において教育現場に無言のプレッシャーを与え、教員、生徒双方のストレスの要因となっている」と指摘した。
最近では、全国学力調査で2年連続で政令指定都市ランキングの最下位だったことに激怒した大阪市長が、全国学力調査の結果を教員のボーナスや校長の給料、そして学校予算の配分に反映させるとして物議を醸した(実際には全国学力調査ではなく、大阪府と大阪市が独自で導入している他の学力テストの結果を校長の賞与と学校予算配分に反映する方向で調整中/参照『日本の公教育の崩壊が、大阪から始まる』)。
このように「結果がすべて」の教育環境では、教員は目の前の生徒ではなく圧力をかけてくる行政の方を見て教育せざるを得なくなり、学校は塾化が進み、「人を育てる場所」としての存在意義を失ってしまう。
いったい何のための、誰のための学力調査なのだろうか?
そもそも、国は憲法で守られているはずの子どもの学習権すら満足に保障できていないのに、テストに明け暮れている場合だろうか。
産休、育休、病休教員の穴を埋められないことから生じる欠員教員の問題は全国で深刻化(小中学校で「先生が足りない」理由)しているし、教員不足で蔓延する免許外教科指導、教員の多忙化による教材研究の時間の不足などはすべて、子どもの学習権の侵害に当たる。
もし、全国学力調査がその名の通り「調査」なら、毎年60億円以上の税金をかけて全員参加形式で行う必要はない。抽出式で十分精度の高い調査はできる。
全国学力調査だけではない。自治体が独自で導入している模擬試験、データシステムの構築、学習ドリル…。十分な教育環境さえ整っていないにもかかわらず、毎年莫大な税金がテストに使われ、民間企業を肥やしている状況を私たちはどのように理解したら良いのだろうか。
お金の無駄だけではない。全国学力調査は時間の無駄でもある。
実際のテストに奪われる授業時間はもちろんだが、実施直前になると学校はテスト対策に追われ、貴重な授業時間が奪われる。本来テストとは日頃の授業の成果を試すものであり、テストのための授業となれば本末転倒だ。
また、夏休みなどの長期休暇を短縮して補習を行う学校や、全国学力調査前の春休みに大量の宿題を課す学校も少なくない。調査が終われば、文科省に送り返す前に学校で全答案をコピーし、結果公表前に自主採点し、分析を行うことは、もはや教育現場では当たり前になっている。
政府が本気で教員の働き方改革を考えるなら、学校へのタイムカードや留守番電話の導入などの小手先の改革よりも、全国学力調査を撤廃した方がよほど教員の負担軽減になるだろう。
「それでも、やはり学力は大事でしょう」という人は、貧困地区の学校ほどAIや非常勤講師を多用する格安のテスト対策型教育を追求し、裕福な地域ほどテスト対策とは無縁の、子どもの感性を磨く全人教育を行っているアメリカの皮肉な教育格差に目を向けて欲しい(参照:鈴木大裕『AI・非常勤講師任せの「負け組」教育』)。
根底には、そもそも、全国学力調査の定義する「学力」とは何なのかという根本的な問題がある。
私たちは本当に国語と算数(理科は3年に一度)のペーパーテストの点数で子どもや学校の評価をして良いのだろうか。ハーバード大学の発達心理学者、ハワード・ガードナー博士が「IQ」の限界を指摘し、「多重知性理論」(Gardner, H. (2011). Frames of mind: The theory of multiple intelligences. Hachette UK.)によって人間の知性の多様性を打ち出してから四半世紀以上が経つが、AI時代の到来も踏まえ、現行の教育では軽視されている美術や音楽、文学や作文などに力を入れ、今こそ子どもたちの感性や表現力、そして想像力を磨くべきではないだろうか。
私は、この春6年生になる自分の娘に、全国学力調査を受けさせないことを決めた。
これは、保護者としてだけではなく、元教員そして教育研究者としての決断だ。別に娘がテストを嫌がっているわけでもないし、娘の学校が子どもたちに余計なプレッシャーをかけているわけでもない。
私の意向とその理由をちゃんと説明したら、校長先生にもご理解頂けた。全国学力調査の当日、テストの時間を使ってどんなことを勉強したいか、今後、担任の先生とも相談しながら娘と計画を練っていくつもりだ。他にも私と似通った問題意識をもつ保護者が娘の学校にいるのなら、何か有意義な学びが一緒にできるかもしれない。
「そんなことして良いの?」と驚く人もいるかもしれない。
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