小此木潔(おこのぎ・きよし) ジャーナリスト、元上智大学教授
群馬県生まれ。1975年朝日新聞入社。経済部員、ニューヨーク支局員などを経て、論説委員、編集委員を務めた。2014~22年3月、上智大学教授(政策ジャーナリズム論)。著書に『財政構造改革』『消費税をどうするか』(いずれも岩波新書)、『デフレ論争のABC』(岩波ブックレット)など。監訳書に『危機と決断―バーナンキ回顧録』(角川書店)。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
「福祉財源」の約束、根強い増税反対を軽視するな
日本に税率3%の消費税が導入されたのは1989年4月1日のことだった。それから30年。消費税の歴史を振り返れば、「消費増税による収入を社会保障に使う」という合意が徐々に形成されたことがわかる。だが結果としてできたのは、増税分の多くを借金返済に充てる財政再建優先の増税だった。安倍政権がそれを変える姿勢を打ち出したが、消費税の使途をなし崩し的に拡大しかねない危うさもはらむ。家計が不振に陥り増税反対論が根強い現状も軽視できず、将来を展望するにも、消費税の使途や役割について議論を深めたい。
消費税導入の前日、竹下登首相は談話を発表し、消費税への理解を国民に求めた。「広く薄く負担を分かち合うことによって、公平・中立・簡素な税制の確立をめざしながら、さらにわが国経済社会の活力を維持し、豊かな長寿・福祉社会を築く」というものだった。
所得がガラス張りで税逃れの余地がないサラリーマンに負担が集中し、自営業者などに比べて不公平だとする批判に応え、消費の時点で誰もが課税を逃れることができない消費税の特徴を「公平性」として前面に押し出すとともに、高齢社会を支える福祉財源を確保する必要を強調したのである。この時は法人税率と所得税率を引き下げた一方で、物品税の廃止で国民の新税に対する抵抗感を和らげ、バブル経済の時代だったので景気の失速も招かずにすんだ。
消費税の誕生と同時に法人税・所得税が軽減されたことは、米レーガン政権、英サッチャー政権の登場を機に、1980年代初頭から顕著になってきた新自由主義の経済思想が日本の税制改革の基調となったことを象徴していた。それまでは富裕層や企業が税の多くを高率で負担する「累進課税」が税制の基本と考えられていたが、その流れが変わり、経済のグローバル化の流れに対応して法人や個人の所得課税を軽減する方向へ各国が舵を切った。その結果、日本では「逆進性」つまり所得の低い人たちの負担率が大きい消費税を税収の大きな柱とする方向へ政策の転換が行われたのだった。
戦後初めての非自民連立を実現した細川護煕政権は、消費税率のアップを奇策で実現しようとした。「税率3%の消費税を廃止し、税率7%の国民福祉税を創設したい」と細川首相が緊急会見で発表したのは、1994年2月3日未明のことだった。これは当時の大蔵官僚のシナリオを細川首相が演じたものの、会見で税率7%とする根拠を問われて、「腰だめの数字」と答えたために紛糾。白紙撤回に追い込まれた。
この時、大蔵省内で主計局幹部がメディア各社に配布した「改革草案」には、「国民福祉税」の創設で税収は16.6兆円増え、消費税の廃止分7.1兆円を差し引いても9.5兆円の税収増となるが、所得税などの減税に6兆円使うので純粋の税収増は2.2兆円が見込まれると書かれていた。しかもその使途は社会保障の歳出増に0.8兆円を充てるだけで、残りの1.4兆円は国債の償還つまり借金返済に使うという内容。国民福祉税という大風呂敷の割には社会保障にわずかしか回らない設計だった。
大蔵省内ですらこの構想を酷評する声が聞かれた。「サギをカラスと言うがごとし」。増税を実現したいばかりに政治的発想で白を黒と言うような無茶を押し通そうとする予算畑の主計局中心の行動に、税制担当である主税局の幹部たちはあきれ顔だった。主税局の論理からすれば、消費税は何にでも使える一般財源であり、その使途を特定の目的に限定するやり方は邪道であり、ましてやすべてが福祉のためと見せかけて増税するなどとは国民の信頼を損ねる無謀な行為であると映ったのだった。