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この娘(津田梅子)にしてこの父(津田仙)あり

新5千円札の表面の人物となる津田梅子の父は農業保護政策を批判した国際派だった

山下一仁 キヤノングローバル戦略研究所研究主幹

内村鑑三が教壇に立ち、伊藤博文が演説した学農社農学校

拡大津田仙(所蔵:青山学院資料センター)
 津田仙は佐倉藩士の子として生まれ、藩命によってオランダ語、英語を学び、幕府の軍艦引き取り交渉のため、三人の通訳の一人として福沢諭吉とともにアメリカに随行している(通訳としては、福沢はあまり役に立たなかったようである)。

 津田は1873年にはウィーン万国博覧会に佐野常民の書記官として随行し、オーストリアにいたオランダの農学者ホイブレンクから農業の指導を受けた。その口述をまとめた『農業三事』は当時のベストセラーになった。帰国後キリスト教の洗礼を受け、同志社の新島襄、東京帝大の中村正直とともに「キリスト教界の三傑」とうたわれた。

 明治政府は西洋の農業技術を直接導入しようとした。その中心となったのが大久保利通である。彼は1873年に内務省を設立し、本格的な殖産興業に取り組んだ。

拡大大久保利通=国立国会図書館提供
 大久保は1872年に農業の試験研究機関として内藤新宿試験場、農業教育機関として1875年に札幌農学校(のちの北海道大学農学部)、1878年に駒場農学校(のちの東京大学農学部)を設置するなど西洋の農業技術の導入・奨励に努めた。

 このような官の動きとは別に、民間において西洋の農業技術を我が国に積極的に紹介・導入しようとする動きがあった。それが津田による学農社の活動である。

 津田は1875年に東京・麻布に、農産についての書籍・雑誌の出版、農産物の栽培・販売・輸入などを事業とする学農社を設立した。翌年、学農社農学校を開校した。

 この農学校は予科2年、本科3年とされ、予科では英語教育、本科では農業教育に重点を置き、すべて原書を教科書として使用した。ただし、学生によれば、その教育方法は原書を読んで農業技術を習得することに重点が置かれ、英語の会話力向上には役に立たなかったという。

 この農学校には内村鑑三らが教壇に立ち、伊藤博文、松方正義、黒田清隆などがよく演説を行った。1881年のピーク時には明治初期の学校としては多い175名が学んでいた。1876年学農社が発行した「農業雑誌」の創刊号には、ジョージ・ワシントンの“Agriculture is the most healthful,most useful and most noble employment of man.”(農業はもっとも健康的で、有益で、かつ人類の最も高貴な職業である)が記されていた。

 「農業雑誌」は西洋の農業技術の紹介のほか、商品作物の栽培技術の普及なども行った。また、学農社は西洋の果樹や野菜の種苗の通信販売を行っている。これが日本最初の通信販売だと言われている。津田の啓蒙活動によって、山梨県のブドウやワイン、大阪泉州の玉ねぎなど地域の特産品が生まれた。

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筆者

山下一仁

山下一仁(やました・かずひと) キヤノングローバル戦略研究所研究主幹

1955年岡山県笠岡市生まれ。77年東京大学法学部卒業、農林省入省。82年ミシガン大学にて応用経済学修士、行政学修士。2005年東京大学農学博士。農林水産省ガット室長、欧州連合日本政府代表部参事官、農林水産省地域振興課長、農村振興局整備部長、農村振興局次長などを歴任。08年農林水産省退職。同年経済産業研究所上席研究員。10年キヤノングローバル戦略研究所研究主幹。「フードセキュリティ」「農協の大罪」「農業ビッグバンの経済学」「企業の知恵が農業革新に挑む」「亡国農政の終焉」など著書多数。

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