課長ポスト捨てDeNAへ。20年後の自分を考えたら今しかない。
2019年05月03日
平成から令和の時代への変わり目に、霞が関を去った一人の厚生労働省医系技官がいる。生活習慣病対策、感染症対策とハードな現場を渡り歩いてきた一方、プロボノとして地域で活動もしていた。厚生労働省の課長ポストを捨て、転身先はDeNA。50歳を前に、これからの人生20年、30年を考えたとき、今しかないとライフシフトを決断した。
慶応大学医学部を卒業した後、1995年4月に厚生労働省に入省した。医療現場で働きたかったが、大学の先輩に誘われた。入省後、栃木県を通じて、足利赤十字病院の内科に研修医として派遣されたが、1年で本省に戻された。
「人が足りないから」という理由だったが、三宅さんは「2年臨床現場にいたら、役所に戻らなくなるだろうと思って戻されたのかもしれない」と振り返る。
自治省消防庁(当時)や外務省の在比日本大使館などを経て、厚労省健康局や医政局の課長補佐として勤務。2010年4月から2013年3月まで石川県に出向。その後、首相官邸直属の内閣官房の新型インフルエンザ等対策室企画官、厚労省医政局経済課医療機器対策室長などを経て、2017年7月から健康局結核感染症課長を務めていた。最後の大仕事は、風疹排除のための対策だ。
2019年4月から株式会社ディー・エヌ・エー(DeNA)の最高医療責任者(CMO)及び子会社の株式会社DeSCヘルスケアの代表取締役社長に就任した。
――厚労省を辞めよう、次のことにチャレンジしよう、と思ったのはいつごろですか。
官僚行政は課長補佐が一番の主役です。昔は「係長行政」といわれていましたけど、今は課長補佐が一番責任を持って仕事をやれます。大変ですけど。管理職の課長になってからは、自分が課長補佐のときに上司から自由に仕事をさせてもらっていたので、私も部下に自由にやらせたかった。だから見守る立場をとってきました。そういう立場に若干飽きてきて、新しいチャレンジをしてみたいなという気持ちが芽生えてきました。
三つ目は、4年ほど前に厚労省医政局経済課で室長をしていたとき、産業側、メーカー側に立って、厚労省保険局医療課とこんなメリットがあってこんな新たな効能があるのでちゃんと診療報酬を付けてあげないと革新的な薬・医療機器が今後出なくなるよ、というやりとりをしていました。私たちも予算という制約がある中で仕事をしていますが、彼らも利益を得るという制約がある中で世の中を良くしていこうという思いを持って仕事をしている姿を見て、自分たちと変わらないと気付かされました。
――厚労省の医系技官というと、退官後は大学医学部の公衆衛生学や医療管理学の教授になる人がいます。また霞が関の官僚は、若いうちに政治家に転身する人もいます。三宅さんはそのような選択肢は考えなかったのですか。
学者の道は考えていました。最終的には保健所長として地域に根ざした仕事をしたかったし、色々な選択肢を考えました。しかし、政治家は考えませんでした。政治家として物事を変えられる立場になるには、一から取り組まざるを得えません。それを考えると、あまりにも時間がかかりすぎます。
――第4次産業革命の話が出ましたが、厚労省はかつて経産省が主導する医療改革とも言える取り組みについては慎重だったという印象を持っていますが、いかがですか。
2004年、厚労省に新設された健康フロンティア戦略推進室に生活習慣病対策を大変革させるために担当として行けと言われました。その時、上司からこんな言葉を掛けられました。
「君のために、真っ白なキャンバスを用意した。自由に絵を描いてくれ」
ゼロから任せられたときには、びっくりしましたが、インターネットで生活習慣病対策の大御所・新しい取り組みをしている人を根こそぎリストアップして、片っ端から話を聞きました。そこで、目を付けたのが、ディジーズマネジメントという米国の取り組みでした。生活習慣病や喘息などの疾患について診療ガイドラインをもとに患者や住民に働きかけを行ない、保健医療のコストをコントロールするとともにサービスの質の向上を実現しようとするものです。
これまで保健師さんたちが自分たちの経験で指導していたものを、データを使ってリスク・背景別に層別化して、こういうグループにはこういう介入をしようというグループごとの仮説を作って介入するのです。ハイリスク群のグループには週1回のペースで訪問しようとか、違うグループには毎日簡単なクイズで学んでもらえるメールを出そうとか、仮説に従って統一的に介入して、その結果を検証し、新たな層別化・介入方法を検討し実施するというPDCAサイクルを回していきます。ぐるぐる回すことですごいスピードでどんどん精度を上げていきました。
これらの考え方が、生活習慣病全般をメタボリックシンドロームというある意味一つの疾患イメージとしてとらえなおし、健康リスクに応じて、保健指導を行う現在の特定健診・保健指導につながりました。
このような取り組みもあり厚労省がデータの重要性に後ろ向きだったとは思いませんが、コンピューターに何でもやらせることや遠隔診療には慎重だったかもしれません。現実と常に向き合っている省庁としては、そう簡単じゃねえ、というところがあったと思います。
――霞が関だからできたことと、霞が関で限界を感じたことを教えて下さい。
救急救命士という専門職がありますが、心肺機能停止状態の人にしか救急救命士法で特定行為ができませんでした。たとえば、除細動や気管カニューレを使うには心肺機能停止状態でないと医療行為をしてはいけないとされていました。では、心肺機能停止状態とは何かということがあって、呼吸機能と循環機能の両方とも止まったときに初めて特定行為ができるのか、どっちかの機能が止まればもう一方も止まっていくので介入を始めていいのか、という法律解釈が問題となっていました。
法律を真面目に解釈していくと両方止まらないといけないんじゃないかということになります。一方、医学的に考えれば、どちらかが止まれば、もう一方が止まるのは時間の問題なので、脳への酸素提供を一刻でも早めるために病院前救急を構築しようとしたのに本末転倒です。でも、現場は萎縮していて、懸命に勉強して資格を取った救急救命士が両方が止まるまで涙を流しながら待っているという声を聞きました。救急救命士法を所管しているのは厚労省医政局です。
そこで考えました。どっちか止まった時点で医療行為を始めるのが国民のためであると考え、厚労省の担当課と協議のうえ、正式に問い合わせると、どっちかが止まればいいという法律の解釈を文書で出してくれました。それを全国の消防本部に一斉にファックスで送りました。これで、私が仕事を離れても年間に1人でも2人でも救われるようにシステムを作れた、そして現場の矛盾を解消してあげることにより、現場の熱い思いを持っている救急救命士の人たちが誇りをもって仕事をやってもらえるので、非常に嬉しかったですね。
霞が関でできるのは、現場の矛盾を解消するようなルールの適正化です。
厚労行政で限界を感じたのは、現場の小さな矛盾をいくつも変えられても、制度疲労を起こしていることに対しては実力不足もあって制度を変えられませんでした。小手先ではない、大きな変革をするには、なかなか自由な発言、自由な動きがしにくいと思いました。
たとえば、今ならできるのかもしれませんが、生活習慣病対策を始めた当時、国土交通省に一駅前までしか定期を買わずに歩いたら特別割引がされるような仕組み作りを相談しました。生活習慣病対策という一つの目標に対して各省庁が別々の角度、ツールでアプローチしていく取り組みは実現できませんでした。みんなが一つの目的を持てばもっと効率的に社会を変えられるのに、と限界を感じました。
――三宅さんはなぜ医師になることを目指したのですか。
そのような時期に、いろんな本を読み漁って出会ったのが、アメリカの精神科医、キューブラー・ロスの著書『死ぬ瞬間―死とその過程について』でした。その時代は、がんの告知がまだ一般的ではなく、亡くなる前はいろいろなわだかまり、心残りを解消する最後のチャンスなのに死ぬということを前提に話せないため、和解したいと思っても「あなたは元気になるから、がんばって」と遮られるような本音を言えないままの関係で死んでいくことに、すごくおかしいと感じていました。一方、がんの末期の方々にどのように接したら良いか、医療者も家族もわからず不安を抱えていたために告知が進まなかったこともあったと思います。
この本は、がんの末期の方々に「あなたはもうすぐ死ぬわけですが、何を考え、何を欲しますか?」と直截に聞いて、それを整理して類型化した本です。常識として聞いてはいけないとされる質問をあえてぶつける研究手法に衝撃を受けましたし、その理論をもっと実感したいと思いました。そのため、東京の小金井にある「桜町病院」というホスピスで、ボランティアを始めました。
そのような経緯で、精神科の中でも肉体的な病気で治療中の方に精神科として寄り添うリエゾン精神医学や緩和ケア病棟で医師をやっていこうと思いました。
ところが、あるとき、厚労省に入省していた大学の先輩に「システムを変えたいのならこっちに来てやってみないか」と誘われました。確かに、医療現場で患者一人一人を一生懸命診ることもやりたかったのですが、より多くの人を救えるのならと思い、大学卒業してすぐ入省しました。
――厚労省の医系技官は最近、比較的短い期間で辞める人が少なくないと思います。それはなぜだと思いますか。
理由は三つあると思います。やりたいことをやれますが、100分の98は雑用やあまり生産的でないことに追われてしまいます。残り2の部分でやりたいことをどうやるかということになります。絶対的な効率の悪さが霞が関にはあります。
二つ目は、どこの省庁も同じだと思いますが、最初に学ばなければいけないことがあるということです。制度を変えたり、作ったりするのは、そう簡単なことではありません。それを不遇の時間が長いと感じる人もいるでしょう。
私自身、最初の10年間は、同期で集まって「辞める、辞める」と騒いでいました。でも厚労省は取り扱う業務に対して職員の数が足りないので、辞めたらますます回らなくなるのと、個人的には大学生時代、医学部体育会スキー部を途中で辞めてしまったので、それ以降は途中で投げ出すことをやめようと心の中で誓っていたました。
――霞が関の役人が去っていく理由の一つに、様々な対応で摩耗してしまうということがあると思います。
国会は、前日の夕方に質問が届くことが一般的です。仕事が終わった後なので、こなすという色彩が出てきて過去と同じ答弁を使ってやり過ごすような生産的でないことが多くありました。帰宅時間が午前2時や午前3時になってしまうこともあります。それで朝5時に集合して大臣にレクチャーすることになります。メディアや国民が注目してくれて、大きなチャンスだというのに、政策立案者が考える時間がないような仕事の仕方をしていいます。
厚労省結核感染症課の課長補佐時代は、深夜12時から会議みたいなこともありました。そういう経験を経て、2009年の新型インフルエンザの流行の際には、メディア対応班、国会対応班を別に作って政策班を守るような組織に変えました。毎月300件ぐらいある感染症の技術的な質問は、相談窓口を外部に移しました。それでも限界がありますね。
――三宅さんは、地域でプロボノをしていましたね。霞が関の役人は、課長補佐、課長になると様々なところに講演に呼ばれたり、会合に招かれたりする機会が多くなります。プロボノをすることで自分に投資していったのはなぜですか。
二つあります。一つは、石川県に3年間出向して経験したのですが、地元の付き合いが残っていました。目の前に住む人がタケノコをくれたり、うちの駐車場を誰かが作物を乾かす場所に使っていたりといった、当たり前の信頼関係が残っていました。隣の部屋の次長に「週末のあいさつを変わってくれ」と言われました。理由を聞くと「年に1回の地蔵洗いがあるから外せないんだ」と。すごくうらやましかった。
サードプレイス。自殺対策でよく言われる言葉です。
自宅か職場のどちらかがだめになると、連動してだめになることが多いと言われています。そのため、3番目の居場所を作っておくことが自殺対策で重要と言われています。金沢の人たちのように、サードプレイスをご近所付き合いで持っているのことがうらやましかったです。
だから、東京に戻った後、同じようなことをやってみたいと思いました。そして地元の町内会に行ったのですが、入る余地がありませんでした。町内会も年功序列で、私の年齢だと新参者です。それで、何かをやる目的で集まった人たちと一緒にやってみたいと考えました。
――そこで得られたものは何ですか。
限界は、町内会に頼みに行っても、「NPOなんて信じられない」と言われてしまうことですね。役所は通知1本出せばみんなにやってもらえていましたが、信用がゼロのところからやるとこんなに難しいのか、と感じました。NPOで、ほぼボランタリーベースで集まった人たちを鼓舞して組織を続けていく難しさと、社会から支援を得るまでの大変さを感じました。これで信用得てモデルを作るまで、すごく時間と労力が必要だと思いました。やっぱり、株式会社を作ってやった方が分かりやすくて信頼されやすいと思いました。
NPO法人Curiosity(キュリオシティ)のfacebookページ
――新たな挑戦先を選ぶにあたって、DeNAを選んだ理由を教えて下さい。
――やりたかったこととは何ですか。
楽しく生きる、健康でいる、孤独でない居場所がある、そういうお手伝いをしたいと思っています。
具体的には、運動を楽しくする仕掛け作りやみんなの居場所を、AIやITを活用して作りたい。医療保険や生命保険は、今、亡くなったときに給付金が出るだけではなく、伴走型保険というものが出てきました。健康診断を受けたり、歩いていたりするとポイントがたまって保険料が割引になったり、いっぱい歩くとカフェでコーヒー1杯を飲めたりする、健康になることや維持することを応援するような保険です。
そういうことを楽しくつづけてもらうためには、工夫が必要です。DeNAはゲームで培ったノウハウがあります。楽しく取り組めるような仕組み作りができるはずです。
――インセンティブを設けて人々の行動変容を促し、社会を変えていく。結果的に健康で暮らしやすい社会、予防につながるということですね。
ゲームの世界を見ていると、1日どれぐらい滞在してくれるか、毎日継続的に利用してもらうためにはどうしたらいいのか、日々努力しています。これは、健康アプリに活用できます。「Pokemon GO」(ポケモン・ゴー)も、元々はアメリカで引きこもりがちな人たちを外出させるためにできた「Ingress」(イングレス)がベースです。そういう技術をうまく使えないかと思っています。
――制度を変える仕事より、現場のプレーヤーとして創造的な仕事をするが面白くなったということですか。
印象的な言葉があります。
「アプリなんて作ることは簡単なんだよ。それを作ってからどう日々変えていくかが重要なんだ」
私をDeNAに誘ってくれた知人からこう言われました。役人は、作ってできたから、さあ使いなさい、何で使わないんだ、という感じです。しかし、彼らは、サイトの3ページ目で離脱する人が多いんだ、3日目でやめる人が多いんだ、とすべてデータを見ながら議論し、常にPDCAサイクルを回して改善していく。トライ・アンド・エラーを繰り返しています。社会は、そういう時代になっているんですね。
僕もあと10年勤めれば、厚労省の局長になれたかもしれません。そうなればもっと広い視野で色々なことができるはずだ、という人がいます。生活習慣病対策も、首相官邸を通じて組織を作ってもらって、全省庁横断的な取り組みができたかもしれません。
第4次産業革命を横目に見て、役人として制度の改善に取り組んできたのでこれからの人生もそのままでいいというよりも、チャレンジしてみようよという気持ちが勝りました。こっちの方が何かできるかもしれないと思っているだけです。
もう一つは、居場所づくりをしたかったのです。
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