さらば厚労省 ライフシフトする医系技官
課長ポスト捨てDeNAへ。20年後の自分を考えたら今しかない。
岩崎賢一 朝日新聞社 メディアデザインセンター エディター兼プランナー

家族とドライブしたり、くつろぐ時間があったりした石川県庁出向時代の休日の一コマ=2010年6月27日撮影、三宅邦明さん提供
平成から令和の時代への変わり目に、霞が関を去った一人の厚生労働省医系技官がいる。生活習慣病対策、感染症対策とハードな現場を渡り歩いてきた一方、プロボノとして地域で活動もしていた。厚生労働省の課長ポストを捨て、転身先はDeNA。50歳を前に、これからの人生20年、30年を考えたとき、今しかないとライフシフトを決断した。
いつの時代も「人が足りない」という厚労省

三宅邦明さん
ライフシフトしたのは、三宅邦明さん(49)。
慶応大学医学部を卒業した後、1995年4月に厚生労働省に入省した。医療現場で働きたかったが、大学の先輩に誘われた。入省後、栃木県を通じて、足利赤十字病院の内科に研修医として派遣されたが、1年で本省に戻された。
「人が足りないから」という理由だったが、三宅さんは「2年臨床現場にいたら、役所に戻らなくなるだろうと思って戻されたのかもしれない」と振り返る。
自治省消防庁(当時)や外務省の在比日本大使館などを経て、厚労省健康局や医政局の課長補佐として勤務。2010年4月から2013年3月まで石川県に出向。その後、首相官邸直属の内閣官房の新型インフルエンザ等対策室企画官、厚労省医政局経済課医療機器対策室長などを経て、2017年7月から健康局結核感染症課長を務めていた。最後の大仕事は、風疹排除のための対策だ。
2019年4月から株式会社ディー・エヌ・エー(DeNA)の最高医療責任者(CMO)及び子会社の株式会社DeSCヘルスケアの代表取締役社長に就任した。
第4次産業革命の中でチャレンジしてみたい
――厚労省を辞めよう、次のことにチャレンジしよう、と思ったのはいつごろですか。
官僚行政は課長補佐が一番の主役です。昔は「係長行政」といわれていましたけど、今は課長補佐が一番責任を持って仕事をやれます。大変ですけど。管理職の課長になってからは、自分が課長補佐のときに上司から自由に仕事をさせてもらっていたので、私も部下に自由にやらせたかった。だから見守る立場をとってきました。そういう立場に若干飽きてきて、新しいチャレンジをしてみたいなという気持ちが芽生えてきました。

厚労省では最後の職場になった結核感染症課の職員と一緒に記念撮影=三宅邦明さん提供
もう一つは、「ドッグイヤー」と言われるように、AIやICTによる社会の変化のスピードがとても速い。第4次産業革命といわれていますが、それを横目で見ながら過ごしてしまっていいのかな、と思うようになりました。だから、そういうところに飛び込んでみたいという気持ちがずっとありました。そういうところで、新しいシステムを作ることによって世の中の変革ができるのではないかと思います。この10年、15年ずっと思ってきました。
三つ目は、4年ほど前に厚労省医政局経済課で室長をしていたとき、産業側、メーカー側に立って、厚労省保険局医療課とこんなメリットがあってこんな新たな効能があるのでちゃんと診療報酬を付けてあげないと革新的な薬・医療機器が今後出なくなるよ、というやりとりをしていました。私たちも予算という制約がある中で仕事をしていますが、彼らも利益を得るという制約がある中で世の中を良くしていこうという思いを持って仕事をしている姿を見て、自分たちと変わらないと気付かされました。