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分断と閉塞の空気~平成経済の現場と実相(前編)

壮絶な長時間労働、日本型雇用慣行の崩壊……。破滅のときをひたすら先送りする日本

田崎基 神奈川新聞経済部記者

soi7studio/shutterstock.comsoi7studio/shutterstock.com

 1989年12月、日経平均株価が史上最高値を付け、崖から転がり落ちるように始まった「平成の経済」はいま、壮絶な長時間労働と増え続ける非正規社員、破綻した日本型雇用慣行によって、破滅のときをひたすらに先送りしている。崩壊する現場と、令和へと移り変わる平成の経済を追った。

残業500時間の働き方

 青白く、疲れ切った表情を浮かべ、男性は2メートルほどもある運転席から下りてきた。神奈川県厚木市内のパーキングエリアでつかの間の休憩を取る。

 「いつもこんな感じです」

 仕事は日曜の午後10時から始まる。10トントラックを荷主の倉庫の前に付け、月曜の朝を待つ。

 「できるだけ先に並んでおかないと、荷積みの開始が遅れるから」

 関東と関西を行き来し、10年が経った。年に数カ月ある繁忙期には月400~500時間の残業を繰り返してきたという。

 計算上、ほぼ休んでいないことになる「残業時間500時間」とは、一体どういう働き方なのだろうか。

 月曜日の未明から神奈川や東京など関東圏内にある工場や倉庫を転々と巡り荷物を積み込んでいく。

 「積み上がると東名高速道路を6~8時間かけて関西へ向かう。積んだ荷物を下ろし、空になったトラックに再び荷物を積み込む。関東へ戻ってくるのは水曜日。下ろして積んでまた関西へ。これを土曜日まで繰り返す。帰宅できるのは土曜日の夜10時ごろ。そして日曜日の夜にはまた荷主の倉庫に列を作って並ぶ…」

 関東へ戻ってくる水曜日に1日休みが取れるときもあるが、繁忙期には週1日あるはずの土曜の休みも消え去った。

疲れている状態が慢性化、感覚がおかしくなり……

 睡眠は、パーキングエリアでの休憩や、倉庫前での待機中にとる。だが、常にトラックを動かせる状態を維持しなければならないため、それも労働時間に加算されていく。

 務める会社には残業時間が存在しない。賃金は運んだ量で計算される「完全歩合制」なのだという。

 昇給はない。固定の基本給もない。高速道路の利用料金まで給与から天引きされる。節約のために一般道をひた走ることもあった。

 「これだけ働き続けて、10年間で手取りが40万円を超えたことはありませんでした」。逆に閑散期には物流量が減り月給は大幅に削られる。手取りが12万円だったときもあったという。

 働き始めたころは疲れと睡眠不足がつらかったが、生活のリズムが体に染みつくと「常に疲れている状態が慢性化し、次第に感覚がおかしくなり慣れていった」

 小学生の娘2人と、妻が家で待つ。しかし、平日に帰宅できることはほぼない。

 「私は『たまに家に帰ってくる人』でした」

 男性はこの間、異常な独り言、激太り、激やせを繰り返してきた。

維持できなくなった「日本型雇用慣行」

 かつて日本では、年齢や社歴を重ねれば、能力や成果にかかわらず給料が上がっていった。60歳の定年まで働き続けることが保障され、各企業には労働組合があった。

 この「年功序列」と「終身雇用」、そして「企業別労働組合」。労働者も企業もこうした「日本型雇用慣行」に支えられ、成長を遂げてきた。平成期に入った直後に起きたバブル崩壊を引き金とする数度にわたる景気後退によって、しかしこの慣行が維持できなくなった。

 雇用情勢に詳しい浜銀総合研究所(横浜市)の遠藤裕基主任研究員はこう分析する。

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 「特に大きなインパクトは、1990年代に起きた『バブル崩壊』と、その影響を引きずったまま起きた『国内金融危機』。さらに『アジア通貨危機』と『消費増税』が重なった。変調が明確に現れるのは97年だ」

 企業は採用を抑制し、早期退職を促し、非正規雇用を拡大し始めた。「終身雇用」の崩壊である。

 人件費を抑制するために、定期昇給だけとなり、年収に占めるボーナスの割合が高まっていった。正社員比率が下がることで、各企業にあった労働組合も組織率が低くなり存在意義が乏しくなっていった。

 結果的に、残った正社員の長時間労働が常態化していった。こうした「正社員」と「非正規雇用」との分断の構図は、資金力の乏しい中小・零細企業で先行して始まり、常態化していった。

超長期低迷のトリガーを引いたのは

 「80年代の日本型雇用慣行は、経済成長における一つの成功モデルだった。正社員としての身分保障があることで、若手を現場で育てる仕組みも円滑に機能したし、年功序列賃金は長期勤続を促した」(遠藤主任研究員)

 給与水準が低く、しかし生産性の高い「若手社員」が、高給だが生産性の低いベテラン社員の給与を支えるという、一見不条理な構図が成立したのは、終身雇用という裏付けによる長期勤続によって、将来的に賃金が取り戻せるという循環が保証されていたからだった。

 今日より明日の方が確実にいい。そして「働き続ければ取り戻せる。だから共にがんばろう」。そう思って働けた時代だったわけだ。

 90年代に起きた日本型雇用慣行の崩壊は、労働市場を根底から変質させ、消費を直撃し、長期にわたる日本経済の低迷を引き起こした。

 家計の消費支出額に、物価変動の影響を加味した「実質消費支出指数」は、この30年近く下落傾向が続く。特に、アベノミクス以降は、物価が急上昇した影響を受けさらに急落した。

 消費の低迷は深刻で、7年目に突入したアベノミクスでも、その成果を見いだすことはできない。

古希を過ぎてもトリプルワーク

 都内に住む74歳の女性は、朝6時半から東京都江東区のスーパーで掃除のアルバイトを始める。モップで床を拭き、トイレを磨き、棚のほこりを取る。最後にごみ置き場でネズミの糞(ふん)を片付け、午前7時の開店に間に合わせる。

 午前11時には東京都新宿区のレストランで4時間の皿洗い。午後6時には中央区にある和食店の流し場に立つ。帰宅は午後11時を過ぎる。

 古希を過ぎてのトリプルワーク。「家にいるより、働いている方がいいのよ」と笑ってみせるが、いずれも立ち仕事の連続だ。時給はいずれも1200円前後という。

 48歳のとき夫を亡くし、生命保険の営業職などを転々として2人の子どもを育ててきた。

 「なんやかや、お金は必要なのよ」と言葉を濁すが、年金で手にするのは1カ月5万円程度。生活を維持することはできない。

 1944年に都内で生まれ、戦後の復興期と高度経済成長を生きてきた。日本は豊かになったのでしょうか。そう尋ねると、少し考えて、こう答えた。

 「みんな貧しいわよね。若い人も、私たちも」

 「豊かさ」とは、「幸せ」とはなんだろうか。過酷な労働が、人にとって大切なものを見失わせようとしている。

労働問題を抱える企業の本社前で抗議の声を上げるプレカアートユニオンのメンバー=2018年2月、横浜市内

日本の戦後経済の転換点は1997年

 長時間労働と非正規雇用の拡大、日本型雇用慣行の崩壊によって、崖を転がり落ち続けている日本経済は、なぜ20年間もの超長期にわたり、低迷から脱することができないのか。

 バブル期から平成へ、そして奈落へと向かう経済を俯瞰(ふかん)し、警鐘を鳴らし続けてきた経済学者の金子勝・立教大大学院特任教授(66)は言う。

 「バブル崩壊後、90年代後半に起きた金融機関の不良債権問題をきちんと処理せずに棚上げしたツケがいまも響いている。これは日本の政府と企業が、これまでずっと常に責任を取らずに、生きながらえてきたことよって構造的に引き起こされている長期低迷に他ならない」

 金融に激震が走る。その構造的な異変を感じ取ったのは、平成期に入り間もない1995年のことだったという。

経済学者の金子勝・立教大大学院特任教授
 「地方の中小信用金庫がぱたりと倒産し始めたんです。何が起きているんだろうか、と。それが最初に気付いたきっかけでした」と金子さん。

 やがて、経済学者やアナリストの多くが戦後の日本経済の転換点と口をそろえる「1997年」を迎える。

 この年の11月3日、中堅の三洋証券が倒産。同月17日には都市銀行の一角である北海道拓殖銀行が破綻(はたん)した。同月24日には四大証券の一つだった山一証券が自主廃業を決めている。金融マーケットを信用不安が襲い、中小の地銀も連鎖的に倒産。全国各地の金融機関には、預金を引き出そうとする客が列をなす異常事態となった。

 日経平均が史上最高値をつけたのは、1989(平成元)年12月29日の大納会だった。平成はバブルの絶頂期に始まり、以来、30年間は転落と低迷の歴史だ。この間に破綻した銀行や信用金庫は180を超えるという。

「景気対策」という人気政策に固執し続けた日本

: William Potter/shutterstock.com
 「あのとき、不良債権問題から目をそらし、政府も企業も景気対策でごまかし、ごまかされ続けた。世論は、保守もリベラルも、税金である公的資金を金融機関に注入することに猛反対したのです」

 金子さんは指摘する。

 「問題が顕在化した97年以降、金融機関の不良債権を個別に厳格に審査し、民間で処理しきれない部分については公的資金によって根本的に解決していれば、その後の日本はV字復活できた可能性があった」

 再三の主張は経済理論に基づく解決策だったが、受け入れられることはなかった。

 デンマークやノルウェー、フィンランドといった北欧諸国は、90年代初頭から金融機関を国有化するなどして徹底的な不良債権処理に取り組み、産業を活性化させ、一つのモデルを形作っていた。

 だが日本では、企業の倒産を回避するため、不良債権の厳格査定、つまり「デューデリジェンス」を先送りし、その一方で、金融機関を国有化することなく公的資金の投入も数兆円規模にとどめた。

 「その結果、本来であれば倒産する企業が生き残り、リストラされるべき産業が再編されなかった。さらに政府は景気対策と言って、財政赤字を膨らませ続けた」

 政府は抜本解決に取り組まず、政権の権力基盤を維持するために、「景気対策」という人気政策にばかり固執し続けたのだ。

 バブル崩壊後、経営不振に陥った多くの大企業は「コストカット」に傾注し、イノベーション(技術革新)に力を割くことをしてこなかった。戦後の経済成長は、研究開発投資によってイノベーションを起こし、高付加価値商品を生み出すことで成し遂げたものだったのに……。

政府の取り組みは、周回遅れの産業の救済

 「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の名をほしいままにしてきた日本企業はその後、衰退の一途をたどる。

 研究開発投資の世界ランキングトップ20(「PwC Strategy&」の2018年調査結果)には、日本企業の名はトヨタ自動車(11位)とホンダ(18位)の2社しかない。

 スーパーコンピューター、半導体、液晶パネル、太陽光パネル、携帯電話・スマートフォン、音楽プレーヤー、カーナビ……。これまで日本が輸出で稼いできた産業は、軒並み世界競争力を失っていった。

 この状況下で、政府がいま熱心に取り組んでいるのは、周回遅れの産業の救済と、金子さんは切り捨てる。

 「原子力発電もリニア高速鉄道も、もう時代遅れ。世界を見渡せば、太陽光や風力といった再生可能エネルギー産業の方が圧倒的に成長している」

 歴史を振り返れば、エネルギーが抜本的に転換する時に、イノベーションは生まれ、産業構造は一変し、生産性が圧倒的に向上してきた。炎から電気へ、石炭から石油へ、そして太陽光や風力へ。電力を生み出すエネルギーはいま、地球規模で大きく変化しようとしている。

 不良債権処理の解決を先送りを招いた長期低迷は、こうした世界の大潮流に乗り遅れ、国内における産業構造の転換をも困難にした。「危ういのは、あのときの失敗を再び繰り返そうとしている点だ」

 金子さんの言葉が重く響く。(続く)

国会前に立ち安倍政権の政策について批判する金子勝・立教大大学院特任教授=2018年4月14日

「分断と閉塞の空気~平成経済の現場と実相(後編)」は29日に「公開」します。