明治維新は「革命」ではなかった
システムの大変革だったが、人々のライフスタイルに劇的な変化をもたらさなかった
榊原英資 (財)インド経済研究所理事長、エコノミスト
開国政策を推進していたのは幕府だった
一般的には明治維新によって日本が「近代化」され、富国強兵政策をとり、次第に欧米に伍するような先進国になっていったとされている。そして、それに先立つ江戸時代は「鎖国」政策をとり世界から孤立した「小さな国」だったとされているのだ。
例えば司馬遼太郎は「坂の上の雲」(文藝春秋・1999年)を次のような一文で始めている。
「まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている」
しかし、明治維新を迎えた日本は決して「小さな国」ではなかった。
維新の時の日本の人口は3330万人。この時期のフランス(3800万人)、ドイツ(3300万人)、イギリス(3400万人)に伍するような人口大国だったのだ。
しかも、1853年の「黒船」の来航後、幕府は日米和親条約(1854年)を結び、積極的に開国政策を進めていたのだ。
時の老中首座は阿部正弘。いわゆる「安政の改革」を断行し、鎖国政策を転換し、講武所や長崎海軍伝習所・洋学所などを創設した。後に講武所は日本陸軍・長崎海軍伝習所は日本海軍・洋学所は東京大学の前身となっている。
阿部は和親条約締結後3年(1857年)、老中在任のまま急死するが、その後を受けて老中首座になった堀田正睦も、その後大老に就任した井伊直弼も開国政策を推進したのだった。