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京都クライシス 観光振興にブレーキを踏む時期だ

町家がなくなり町家風現代建築だけが残ったら、町に「京都らしい」雰囲気は残るのか?

西村宏治 朝日新聞GLOBE記者

 京都の町が姿を変えている。

 政府の「観光立国」政策のおかげもあって増えてきた外国人観光客を当てこみ、宿泊施設が急増し、観光都市としての色がかつてないほどに濃くなってきた。人口減少が続く中で、どこまで観光に頼ったまちづくりをするのか。単なる観光振興は、ブレーキを踏むべき時期に来ている。

京都・西村1ホテル建設が決まっている六角通の町家。一部を残してホテルになる計画で、外湯をめぐって住民から批判の声が上がっている

急増するホテルと民泊

 先日、新聞にこんな投書が載っていた。

 京都市内の自宅のそばに江戸時代に開かれた運河、高瀬川がある。(略)

 川近くで約300年続く京町家が今、市内のホテル建設ラッシュで憂き目をみている。昨秋、向かいにホテルが建ち、今度は隣接地にもホテル建設が計画中。日照権もプライバシーも住民にはないのか。(略)

 ヨーロッパ各地では古くから街並みや景観が厳しく守られ、今も大きな観光資源になっている。ところが京都では町家があちこちで解体され高層の建物に変わっている。町家が一度壊されれば景観は元には戻らない。歴史を感じさせる瓦屋根の街並みや市民のこまやかな暮らしに、京都の良さがあるのではないか。(略)
(『朝日新聞』 4月14日付大阪版、4月17日付東京版)

 思わずひざを打った。なにせ最近、京都を訪れるたびに驚くのが、ホテルの増加だからだ。市内中心部は、どこもかしこもホテルだらけ、といった風情だ。

 数字を見てみよう。

 京都市によれば、2015年度末の旅館・ホテルは532施設、2万6297室。それが18年度末は624施設、3万3608室になった。昨年度1年間だけで73施設が新たに許可を受けた。簡易宿所も急増した。同じ期間で、696施設の3489室が2990施設の1万2539室へと3倍以上になった。(京都市保健福祉局 「許可施設数の推移」

 そして急増するホテルは、住民との間に摩擦も生んでいる。

 3月19日付の産経新聞(電子版)の記事は、中京区の町家を一部解体してホテルにする計画をめぐる状況を描いている。(「消える町家、祇園祭1150年の歴史に危機」 産経新聞 2019年3月19日付)

 記事によれば、ホテル側が通りに面した「外湯」を計画している。この通りには祇園祭の山鉾のひとつ「浄妙山」が建つこともあり、山が上から裸で見下ろせることになってしまう。「祭りを大事にする地域住民の神経を逆なでしている」。そんな声を記事は紹介している。

 ちなみにこの地域では、市の文化財に指定されている大型の町家「旧川﨑家住宅」が、ホテル建設のために解体・移築されるのではないかという話も持ち上がっている。(毎日放送 「【特集】文化財の『京町家』でさえも解体の危機 市が業者に『警告文』送る異例の事態も」、 2019年4月8日付)

京都・西村1市の文化財に指定されている旧川﨑家住宅。移築計画が取りざたされている

 私自身、昨冬に市内のホテル建設現場で見た衝撃的な光景が忘れられない。

 古い街並みの残る路地と、大通りとの角地にそのホテルは建設中だった。大通り沿いは高さ規制が緩い。だから路地の2階建ての家々を見下ろす5階建ての建物ができていた。

 だが、驚いたのはその路地に入った時だ。ホテルの路地側の1階の壁に沿って、3段積み、10台ほどのエアコンの室外機を並べる工事が進んでいた。うだるような京都の真夏、路地に向かって排出される熱と風と騒音を思い、絶句した。

 さらにやりきれない気持ちになったのは、その建設中のホテルの内部の写真をSNSで見た時だ。いかにもオシャレな感じに演出されたロビーがそこに写っていた。宿泊客は、そのオシャレさや快適さを存分に楽しむのだろう。ところがその裏では、路地に向いた室外機が熱風を吹き出すことになるのだ。

 おそらく、ホテル側にも悪気はなかっただろう(あったら大問題だ)。住民からは当然のように反対の声が上がり、結局、台数は減らされることになった。

 だが、このことは図らずも観光振興の持つ負の側面をはっきり示していたと思う。

ホテルが変える景観

 ひとつは景観破壊の問題だ。京都の古い街並みは、第二次大戦で大規模な空襲を受けなかったからこそ残ってきた貴重なものだ。それは、あまり京都らしさを感じさせないビルが並ぶ五条通や、堀川通、御池通の歴史を振り返れば分かる。この地域では第二次大戦中、防火のために建物が強制的に撤去させられたからだ。(川口朋子『建物疎開と都市防空』、2014年)

京都・西村1堀川通の街並み。京都でも早くからマンションが増えた地域だ

 すでにマンション建設などで景観はかなり傷つけられている。外国のガイドブックなどには、昔の日本らしい風情を期待すると「失望させられる」と書かれている。(たとえば、ROUGH GUIDES JAPAN, 7th ed. 2017, pp.421

 それでも市の調査では、16年度に4万146軒の町家が残っていた。08~09年度調査の4万7735軒からは減ったものの、決して少ない数字ではない。(京都市都市計画局「京町家まちづくり調査に係る追跡調査の結果について」、2017年5月)

 京都には、瓦を使ったり、黒や茶色を使ったりした町家にあわせたデザインの現代建築も多い。だが、これらも町家がところどころ残っているから違和感がないと言える。町家がなくなり、「町家風」の現代建築だけが残ったらどうなるのか。それでも町は「京都らしい」魅力的な雰囲気を残すのだろうか。

 もちろん、そんなことはないだろう。このところ街中を歩いていて、京都らしさが忽然と消えたように感じる場所がある。変化は、急に来たわけではない。何十年もかけて少しずつ変わってきたものだ。ところが、その町の景観の鍵を握っていた町家がなくなると、とたんに町の風景が色あせるのだ。

京都・西村1町家とマンション、駐車場が交互に残る。いまの京都を象徴する街並みだ

非日常が日常をのみ込む

 もうひとつ、ホテル建設をめぐる問題を通じて感じたのは、住民と観光客との間にある大きな断絶だった。それは、住民の「日常」と、観光客の「非日常」との断絶だ。つまり住宅が消えてホテルや民泊になるということは、日常の空間が消えて、非日常の空間が広がるということだと言える。

 観光とは、非日常だ。だから迎える側も、普段の生活ではしないことを演出しようとする。考えてみてほしい。あなたがその町で長く暮らすとしたら、通りに面して外湯をつくったり、多くの室外機を並べたりするだろうか。露天ぶろや景色のいい部屋をつくることを少しゆずっても、近所の人と仲良くやっていくことを考えないだろうか。

 もちろん観光客の非日常と、市民の日常が交わらなければ、問題は少ない。京都にも、受け入れる余裕はある。清水寺や金閣寺、平安神宮などに限って人が集まっている分には摩擦もさほど起きなかったと思う。

 だが、観光客が大幅に増え、SNSでさまざまな情報が出回るようになって、観光の姿は変わった。観光客の非日常が、京都人の日常にあふれ出てきてしまったのだ。

 その典型が、錦市場の変わりようだろう。「京の台所」と呼ばれ、プロの料理人が仕入れに集まり、さらに近所の人たちが買い物に訪れていた商店街の面影は、もはやない。あるのは、もっぱら食べ歩きをする外国人観光客の姿だ。

京都・西村1外国人を中心とした観光客でにぎわう錦市場

 規模の差はあるが、同じようなことは各地で起きている。住宅がなくなってホテルや民泊が増えると、周辺には日用品店やスーパーではなく、土産物店や飲食店が増えていく。さらに民泊需要、ホテル需要で地価が上がれば、家賃も上がる。そうすると、古くからの住民は住めなくなって引っ越すしかない。それが、またホテルや民泊になる。

 つまり京都は、特に中心部は、暮らすという日常を維持するのが難しい町になっている。このままいけば日常が非日常にのみ込まれるのではないか。そう思うほどの勢いだ。

 その理由のひとつは、もちろん円安や国、地方の観光振興策による外国人観光客の増加だ。だが、見逃せないのは、そこに地場産業の衰退というもうひとつの問題があることだ。もし地域経済がうるおっていたなら、これほどまでに観光客向けの商売が広がることはなかったはずだからだ。

京都は観光都市ではない?

 「京都は観光都市ではない」。京都市の門川大作市長は、ことあるたびにそう言う。観光名所が多くなったのは、歴史の結果にすぎない。一方で京都には、京都大学をはじめとした大学を多く抱える「文教都市」という側面がある。なにより、「ものづくり都市」としての側面があるというのだ。

 だが、それは京都が観光一色に染められることへの懸念から来る言葉だろう。

 実際のところは、京都はずっと観光の街ではあった。江戸時代にはすでに物見遊山の客も多く、1780(安永9)年には、最初のガイドブック『都名所図会』が発行された。いまでも使えるほどのイラスト入りの案内本だ。(宗政五十緒 『都名所図会を読む』、1997年)

 明治維新後には、東京遷都にともなって活力を失った京都の町を再興させるため、あるいは外貨を稼ぐため、絶えず観光振興に力が入れられてきた。明治に始まった「都をどり」などの取り組みはそのひとつだ。さらに、たとえば京都市観光課は、戦前の1938年に『旅館サービス読本』を出版し、旅館などが外国人観光客にどう対応すべきかなどを説いている。

 だが、それ以上にものづくり都市の色合いが濃かったと言える。元々、工芸などの伝統産業があったところに、明治以降は京都府市が積極的な産業政策を採った。京大との連携もあり、島津製作所を初めとした近代的な製造業群が生まれた。さらには西陣織などの織物産業も高度化し、全国に販路を広げて隆盛を誇った。こうした産業が京都市中の経済活性化のエンジンの役割を担ったのだ。

 ところがバブルの崩壊後、伝統産業は苦境に陥る。その象徴が西陣織だ。西陣織工業組合によると、1990年に2800億円近かった西陣織の推定出荷額は2014年には373億円までになった。(西陣織工業組合「西陣生産概況」、2014年)職人たちの多くが職を失い、それにともなって外食、小売りなども衰退した。そうして生まれた空き家に入り込んできたのが民泊、というわけだ。

 観光業は外国人観光客の増加にともなって急速に規模を拡大している。13年に約7000億円強だった市内の観光消費額は、17年に1兆1268億円にまでふくらんだ。人口減少や市場の縮小、地場産業の衰退に悩む京都にとって、観光業は希望の光とも言える。(京都市産業観光局「京都観光総合調査」、2017年)

京都・西村1「上御霊さん」とも呼ばれる御霊神社

観光は主要産業になるのか

 しかし、どこまで観光に頼るべきかは、慎重に検討すべき課題だ。それには経済的な理由と文化的な理由がある。

 経済的な側面から考えると、観光業は浮き沈みが激しい産業だ。特に外国人観光客は、外交関係や為替の変動の影響を大きく受ける。あした突然、客足が途絶えることもあり得る産業だ。そうした浮き沈みを吸収するために、雇用も非正規雇用などの不安定な雇用が多い。

 さらに、京都のように古い寺社仏閣などが注目される観光地は、積極的な集客策を採るのも難しい。テーマパークのように、新しいアトラクションを追加して集客するといった手段は取りにくいだろう。

 それでも観光しか頼る道がないというなら、したたかな戦略が必要になる。たとえば私が17年に取材したタイ・チェンマイでは、中国人観光客が急増し、街中に中国語の看板があふれるまでになった。観光客と地元住民とのあつれきも起きた。すると、中国側に「じゃあもう行かない」という雰囲気が生まれ、タイ側があわてて友好を演出する、といったことになった。

 さらに、観光消費をいかに地元に還流させるかも大きな課題になる。チェンマイでは、次々に中国資本のレストランやホテル、土産物店ができ、ツアーを仕切るのも中国の旅行業者。さらに中国国内で旅行代金の決済が行われ、決済の流れを捕捉するのも難しい状況が出始めていた。(朝日新聞GLOBE+「学食にまで行列が…東南アジアを悩ませる外国人観光客」、2017年5月7日付)

チェンマイ2017年3月のチェンマイの街。中国語の看板があちこちにあった

 同じようなことは京都でも始まっている。中国など海外資本の民泊業者は多いし、中国人の団体が集まるレストランもある。着物のレンタルなどの新しいサービスを手がけるところも出てきた。観光業を経済の柱にするなら、こうしたところに流れるお金なり、事業なりをどうやって地元に定着させるか、知恵を絞る必要があるだろう。

 海外を含め、地元以外の企業が事業を営むことは、資本が限られる状況なら、お金のまわりが良くなる効果を生む。しかし混雑や騒音といったネガティブな側面を引き受けている住民に恩恵がなければ、なんのための観光振興かという話になる。さらに外部資本頼みでは、観光客が急減したときに、一気に撤退の憂き目にあう恐れもある。

京都が京都でなくなる

 さらに私が、京都が「観光頼み」にならないようにすべきだと考えるのは、京都の文化が観光で培われてきたものではないと考えるからだ。逆説的だが「観光頼みでない」ことこそが、京都の魅力なのだ。

 もともと、いま残る町家の多くは観光のために残されてきたわけではない。人が住むために改良され、受け継がれてきたものだ。もちろん神社仏閣も、もともとは観光のために建てられたわけではない。

 数多くの祭りにしても、観光のために行われているわけではない。多くの観光客を集める祇園祭にしても、地元にとってみれば年に一度、神様をお迎えする機会だ。

 神輿を迎えるために、山鉾が巡行して町を清めるのが先祭。神輿を送るために山鉾が巡行して町を清めるのが、後祭。もちろん、町内の隆盛を誇るために見せ物の要素はあった。それでも、本質は違う。自分たちのための祭りなのだ。

京都・西村1御霊祭、還幸祭の行列。約600人が練り歩く

 京都では、1年を通してあちこちで祭りがある。毎年5月18日に開かれているのは、上御霊神社の御霊祭。今年はうまく週末に重なったので見に行くことができた。

 お稚児さん、牛車などの行列に続いて来るのは3基の神輿。最後尾は「えらいやっちゃ」「えらいやっちゃ」という京都でも珍しい声をかけながら進む神輿(中之御座)で、これを見るのがいつも楽しい。

 行列は計600人という大所帯だ。神輿も大きく、京都以外なら大々的にPRされそうな規模の祭りだが、それが毎年、平日に淡々と催されている。見に来る人も、地元の人を除けばあまりいない。境内に行けば、子どもたちがはしゃぎ回っている。こうした日常こそ京都の奥深さであり、それこそが、この町の魅力を演出している。歴史が生きているのだ。

 観光でも、こうした「日常」が人を引きつけるのではないかと思う。

京都・西村1御霊神社のお神輿(北之御座)。400年前、後水尾天皇からの賜り物の鳳輦(ほうれん)を神輿にしたものという

 外国人観光客でごった返す伏見稲荷にしても、千本鳥居は観光のために建てられたものではない。時おり神楽が奉納されていて、よく多くの観光客が見ているが、これも信仰者のためのものであって、観光向けではない。だからこそ、見ている側には本物の日本文化に触れている感触があるのだと思う。町の中に同じように赤い鳥居を並べても、ここまで観光客を集めることはできないだろう。

 観光市場化してきた錦市場にしても、宣伝やガイドブックには「京の台所」と強調されていたり、近所の住民風のお年寄りが、おばんざいを買う姿の写真などが紹介されていたりする。結局、京都の日常へのあこがれが、観光客を呼び寄せているのだ。(たとえばROUGH GUIDES JAPAN, 7th ed. 2017, pp.419

 ところが日常を期待して訪れてみても、そこに観光客向けに用意された非日常が用意されているとなると、観光客は裏切られた気持ちになる。実際に口コミサイトなどを見れば、日本人などからの厳しい評価も並んでいる。

「京都らしさ」を守るために

 京都の日常が、観光という非日常にのみ込まれないためには、どうすればいいだろうか。ひとつは京都の日常を支える観光以外の産業をきちんと育てることだ。京都では、ホテルの増加や地価の上昇などもあり、オフィス不足も深刻になっている。だが、これは本稿の主題ではないのでひとまず措いておく。

 景観について言えば、これは規制しかないだろう。そもそも景観の好ましさについては、海外の研究者からも、京都人の多くは伝統的な町家の景観を望ましいと考えている、との指摘がある。壊したくて壊しているわけではない、というのだ。(Brumann,Christoph, "Tradition, Democracy and the Townscape of Kyoto", 2012

 すでに破壊が進んでしまったとはいえ、守るべきものはある。京都市は町家の解体を事前届け出制にするといった取り組みを進めてきたが、これをさらに強めるべきだ。急がないと、規制が強まる前の「駆け込み解体」ばかりが進んでしまいかねない。町を遺産として残すのでなく、いまも使っていこうとすれば、不便なところもある。新たなオフィスも必要だろう。私は開発を否定するつもりはまったくない。それでも残せるものは残し、新たにつくるものは残っている景観に相当に配慮してバランスを取っていくことは必要だ。

 同じように、観光についても「振興」だけでなく「規制」につながるような政策が求められている。

 地元に落ちる税でいけば、18年には宿泊税が導入されたが、それだけでは不十分だろう。使途の明確化は必要だが、税率アップも考えられる。宿泊税の導入にあたって検討された、駐車場や別荘への課税も再び検討してもいいと思うし、バスなどでは、住民と観光客の料金の差別化も検討されるべきだろう。

 さらに、住民と観光客との接点をうまくつなぐ工夫が必要になる。

 観光客が観光地に求めるものはそれぞれだが、中には日常を楽しみたいというニーズがあるとの指摘がある。(清水泰正「香港の旅行メディアにみるオーバーツーリズム対策へのヒント」、2019年3月)

 であれば、もっと住民の意向と、観光客の意向をすりあわせる役回りの人材が必要だろう。1回来て終わり、とならないように、京都の文化の奥深さを伝えていくことも必要だ。私自身も、「京都はもういい」と言っていた外国人の友人を、先述した御霊祭や、本願寺で毎朝行われている「晨朝勤行」などに案内し、「見方が変わった」と言ってもらったことがある。

 もちろん京都市にしても、京都で古くから観光に携わってきた人たちにしても、そんなことはとっくに分かっているはずだ。数を追い求める観光振興はもはやめざしていないだろうし、分散化しようという試みもある。しかし残念なことに対応が追いついていない。アベノミクスの観光振興策の中で、ほんろうされた形になった。せめて東京五輪がなければ、少しずつ手を打てたかもしれないが、変化は急だった。

 しかし、嘆いていても始まらない。来てくれる観光客を追い返すわけにいかないなら、いかに住民の味方になってもらえるかを考えるよりほかない。

 繰り返すが、京都の文化はそこに暮らす人たちが自分たちのためにつくってきたものだ。住民がいなくなるような状況が続けば、受け継がれてはいかない。すべてを昔のまま残すのは難しいが、少しでも残そうとしなければ、あっという間に失われてしまうだろう。

普段着の京都普段着の店で食事をするのも京都での楽しみのひとつ

シリーズ『京都は永遠か』では投稿を募集します

 遷都されてから1200年以上の歴史を積み重ねてきた京都の街や文化。世界遺産登録もされ、今や京都と言えば修学旅行生より外国人旅行客が目立つほどになりました。インバウンドを狙った政府の観光政策の影響を色濃く反映しています。

 その結果、培ってきた人々の暮らしや文化が消費され、これから100年先、1000年先に京都の価値が受け継がれるのか、危うくなってきています。

 論座ではシリーズ『京都は永遠か』として、随時、識者らの論考、提言を掲載していきます。

 また、京都市民だけでなく、多くの読者のみなさんにも一緒に考えてもらえたらと思います。論座編集部では、『京都は永遠か』をテーマに、みなさんからも投稿を募集します。

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論座編集部『京都は永遠か』係
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