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「ノイズ」に否応なく出会うための仕組みが必要だ

地域では様々な変革や実験が始まっている 希望はいくらでもある

松本一弥 朝日新聞夕刊企画編集長、Journalist

 ネット空間などに蔓延(まんえん)するフェイクニュースに対し、若者が集うアカデミズムの現場ではどう抗(あらが)おうとしているのか。米国ほどではないとはいえ政治的な二極化が進み、社会の分断や格差の拡大、階層の分化が音もなく進行するこの国で、真の意味でのリベラルアーツとその教育がはたす役割は何か。政治史思想史や政治哲学を研究する東京大学社会科学研究所の宇野重規教授に聞いた。

「信頼するに足る情報源がある」―その基準が疑問視されている

インタビューに答える東京大学社会科学研究所の宇野重規教授=撮影・吉永考宏拡大インタビューに答える東京大学社会科学研究所の宇野重規教授=撮影・吉永考宏

――子どものころからインターネットに触れている若い世代は、フェイクニュースやヘイト的言説を含んだニセ情報も「ネットに書いてあるから」という理由でそのまま無批判に信じ込んでしまいがちです。多くの学生に接する機会の多い政治学者として、若者にアドバイスするとしたらどんな言葉をかけますか?

 「いま大学の研究者たちがみんないっているのは『エビデンス・ベイスド』(evidense-based)ということです。つまりその情報が『客観的な根拠』に基づいているか、あるいは情報のもとになるデータが示されていてすべての人によってその情報が検証可能かどうか、それが重要だということです。だから『検証可能なデータに基づかない言説に対しては一定程度注意しよう』と呼びかけたいですね」

 「でも、それだけでは今の若い学生にとってはおそらくあまりインパクトを持たないかもしれません。アカデミズムやジャーナリズムの人間はおよそ『信頼するに足る情報源』と『そうでない情報』の違いがあるという前提に立って議論をしますが、若者などはたぶんその基準自体に異を唱えているのだと感じます。それこそ『フェイクニュース』といった場合に『フェイクでないニュースがある』ということが前提になっているけれど、そんな明確な基準があるのか、仮にあるとしても大学の教師やマスメディアに勤める新聞記者だけがそのような『真理』を独占しているといえるのか、と問いかけているように感じます」

――「おまえたちの方が正しい」という根拠は一体どこにあるのかということですね。

 「『知』というものはこれまでは何らかの『権威』とセットになってきました。『すべてのことを改めて検証し直せ』といいだしたら大変です。だから世の中の多くのことについては『まあこれまではこうして来たのだ』ということをとりあえず暫定的に信じなさい、というわけです。そんな積み重ねでできてきた『権威』がいま、最終的に崩壊しつつある時代に入ったということではないでしょうか。それは悲しむべき、嘆かわしい事態だという声もあるでしょうが、少し見方を変えるとこれは『民主化』ということではないかというふうにも思うのです」

「民主的な専制」や「多数者の暴政」と「知の民主化」

――といいますと。

 「思想家というと、私にとって重要なのはフランスの思想家アレクシ・ド・トクヴィルですが、トクヴィルは『アメリカのデモクラシー』の中で民主主義について非常に面白い定義をしているんです。貴族政は英語で『Aristocracy』で、元々の意味は『優れた人』という意味です。『客観的な真理を担う優れた人』がいるという前提があった時代、特定の個人や集団が権威を持っていたのが貴族制の時代だとすれば、民主的な時代というのはそれまでの権威が失われてすべての人が『自分の頭で判断したい』と思うようになった時代です。そう考えると、すべての人が『いや、自分が判断するんだ』と主張するのは、トクヴィル的にはそれが『民主的な時代』ということであって、それ自体別に悪いことではない、つまりそれが『知の民主化』なのだということです」

 「ただし、だからといって『知の民主化』は必ずしもいいものとは限らず、正しい結論が支配するわけでもありません。『いやむしろ逆だ』とトクヴィルはいうんです。なぜかというと、民主的な時代の『自分の頭で考えたい』という個人は、実はある特定の権威に対しては非常に従順になるということがあるからです。世の中の多くの人が『これがいいんじゃない?』といっていることに対しては何となく『その通り』と思ってしまい、多数者の権威というものに非常に弱くなる。これが、トクヴィルがいった『民主的な専制』とか『多数者の暴政』という言葉の意味で、この考え方は今日なお有効だと思います」

――御著書『トクヴィル 平等と不平等の理論家』の中ではこう書かれています。「トクヴィルの分析によれば、平等化時代の個人は、すべてを自分で判断しようとして、むしろ多数者の声に従属する。何ごとを判断するにあたってもまずは『ネット世論』を参照する現代人は、その意味でまさに『トクヴィル的』である」(宇野重規『トクヴィル 平等と不平等の理論家』、講談社学術文庫、2019年、209頁)

 「ええ、しかもSNSの時代には、世論の分極化が進みます。分断された集団の中にそれぞれの多数者が生じて、その集団が『真実』とみなすものに対してはみんな従順になってしまう。インターネットの発達により、その人が接する特定のメディアやSNSでより分けられた声ばかりを毎日集中豪雨のように聞くことによって、それがあたかも社会全体の声であるかのように思ってしまうということがあります。ただ繰り返しになりますが、基本的な大きな流れとして『知の民主化』が進んでいること自体は否定のしようがない」

――特定の集団の中で仲間同士の価値観や思考が響き合って互いの考えが強化されるエコーチェンバー現象などによってそうした傾向がさらに加速されている、と。

 「それがまさに今という時代なのではないでしょうか。非常に分断されてはいるけれども、それぞれの内部においては圧倒的に多数者の声に従っている」

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筆者

松本一弥

松本一弥(まつもと・かずや) 朝日新聞夕刊企画編集長、Journalist

1959年生まれ。早稲田大学法学部卒。朝日新聞入社後は東京社会部で事件や調査報道を担当した後、オピニオン編集グループ次長、月刊「Journalism」編集長、WEBRONZA(現「論座」)編集長などを経て現職。満州事変から敗戦を経て占領期までのメディアの戦争責任を、朝日新聞を中心に徹底検証した年間プロジェクト「新聞と戦争」では総括デスクを務め、取材班の同僚とともに石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、JCJ(日本ジャーナリスト会議)大賞、新聞労連ジャーナリスト大賞を受賞した。早稲田大学政治経済学部や慶応大学法学部では非常勤講師などとしてジャーナリズム論や取材学を講義した。著書に『55人が語るイラク戦争ー9.11後の世界を生きる』(岩波書店)、共著に『新聞と戦争』(上・下、朝日文庫)。

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