地域では様々な変革や実験が始まっている 希望はいくらでもある
2019年06月19日
ネット空間などに蔓延(まんえん)するフェイクニュースに対し、若者が集うアカデミズムの現場ではどう抗(あらが)おうとしているのか。米国ほどではないとはいえ政治的な二極化が進み、社会の分断や格差の拡大、階層の分化が音もなく進行するこの国で、真の意味でのリベラルアーツとその教育がはたす役割は何か。政治史思想史や政治哲学を研究する東京大学社会科学研究所の宇野重規教授に聞いた。
――子どものころからインターネットに触れている若い世代は、フェイクニュースやヘイト的言説を含んだニセ情報も「ネットに書いてあるから」という理由でそのまま無批判に信じ込んでしまいがちです。多くの学生に接する機会の多い政治学者として、若者にアドバイスするとしたらどんな言葉をかけますか?
「いま大学の研究者たちがみんないっているのは『エビデンス・ベイスド』(evidense-based)ということです。つまりその情報が『客観的な根拠』に基づいているか、あるいは情報のもとになるデータが示されていてすべての人によってその情報が検証可能かどうか、それが重要だということです。だから『検証可能なデータに基づかない言説に対しては一定程度注意しよう』と呼びかけたいですね」
「でも、それだけでは今の若い学生にとってはおそらくあまりインパクトを持たないかもしれません。アカデミズムやジャーナリズムの人間はおよそ『信頼するに足る情報源』と『そうでない情報』の違いがあるという前提に立って議論をしますが、若者などはたぶんその基準自体に異を唱えているのだと感じます。それこそ『フェイクニュース』といった場合に『フェイクでないニュースがある』ということが前提になっているけれど、そんな明確な基準があるのか、仮にあるとしても大学の教師やマスメディアに勤める新聞記者だけがそのような『真理』を独占しているといえるのか、と問いかけているように感じます」
――「おまえたちの方が正しい」という根拠は一体どこにあるのかということですね。
「『知』というものはこれまでは何らかの『権威』とセットになってきました。『すべてのことを改めて検証し直せ』といいだしたら大変です。だから世の中の多くのことについては『まあこれまではこうして来たのだ』ということをとりあえず暫定的に信じなさい、というわけです。そんな積み重ねでできてきた『権威』がいま、最終的に崩壊しつつある時代に入ったということではないでしょうか。それは悲しむべき、嘆かわしい事態だという声もあるでしょうが、少し見方を変えるとこれは『民主化』ということではないかというふうにも思うのです」
――といいますと。
「思想家というと、私にとって重要なのはフランスの思想家アレクシ・ド・トクヴィルですが、トクヴィルは『アメリカのデモクラシー』の中で民主主義について非常に面白い定義をしているんです。貴族政は英語で『Aristocracy』で、元々の意味は『優れた人』という意味です。『客観的な真理を担う優れた人』がいるという前提があった時代、特定の個人や集団が権威を持っていたのが貴族制の時代だとすれば、民主的な時代というのはそれまでの権威が失われてすべての人が『自分の頭で判断したい』と思うようになった時代です。そう考えると、すべての人が『いや、自分が判断するんだ』と主張するのは、トクヴィル的にはそれが『民主的な時代』ということであって、それ自体別に悪いことではない、つまりそれが『知の民主化』なのだということです」
「ただし、だからといって『知の民主化』は必ずしもいいものとは限らず、正しい結論が支配するわけでもありません。『いやむしろ逆だ』とトクヴィルはいうんです。なぜかというと、民主的な時代の『自分の頭で考えたい』という個人は、実はある特定の権威に対しては非常に従順になるということがあるからです。世の中の多くの人が『これがいいんじゃない?』といっていることに対しては何となく『その通り』と思ってしまい、多数者の権威というものに非常に弱くなる。これが、トクヴィルがいった『民主的な専制』とか『多数者の暴政』という言葉の意味で、この考え方は今日なお有効だと思います」
――御著書『トクヴィル 平等と不平等の理論家』の中ではこう書かれています。「トクヴィルの分析によれば、平等化時代の個人は、すべてを自分で判断しようとして、むしろ多数者の声に従属する。何ごとを判断するにあたってもまずは『ネット世論』を参照する現代人は、その意味でまさに『トクヴィル的』である」(宇野重規『トクヴィル 平等と不平等の理論家』、講談社学術文庫、2019年、209頁)
「ええ、しかもSNSの時代には、世論の分極化が進みます。分断された集団の中にそれぞれの多数者が生じて、その集団が『真実』とみなすものに対してはみんな従順になってしまう。インターネットの発達により、その人が接する特定のメディアやSNSでより分けられた声ばかりを毎日集中豪雨のように聞くことによって、それがあたかも社会全体の声であるかのように思ってしまうということがあります。ただ繰り返しになりますが、基本的な大きな流れとして『知の民主化』が進んでいること自体は否定のしようがない」
――特定の集団の中で仲間同士の価値観や思考が響き合って互いの考えが強化されるエコーチェンバー現象などによってそうした傾向がさらに加速されている、と。
「それがまさに今という時代なのではないでしょうか。非常に分断されてはいるけれども、それぞれの内部においては圧倒的に多数者の声に従っている」
――例えば中学生のころから、それと知らずにフェイクニュースやヘイト的言説にまみれたネット空間の中に放り込まれているうちに、特定の偏った情報のみを受け入れるようになってしまう。大学で教えるとそんなケースにも現実に遭遇しますが、「自分が目にしている情報はもしかしたら偏っていてどこかおかしいのかもしれない」という本人の『気づき』はどうやったら訪れるでしょうか?
「自分たちがいま属している、分断された言説空間の外部にも人がいて、その人たちの声にさらされた時に自分たちの議論が持ちこたえられるか、という経験を一度でも二度でもしなければいけないということだと思います。情報理論でよくいわれますが、この世界というのは『知り合い』がいて、『知り合いの知り合い』もいて、さらに『知り合いの知り合いの知り合い』もいて、というぐあいに6人ぐらいつなげていくと世界一周してしまう。つまり情報というものは特定の集団の中に閉じこもっていては広がらないけれど、途中で自分の知っている人たちの外にネットワークを広げるようにすると、その情報量は飛躍的に拡大する。だからこそ、その経験をどこかで本当にしてほしいのです。自分がふだん所属している情報集団の外に一歩踏み出してみると『あっ、いままで知らなかった世界があるんだ』ということに気づくからです」
「そうなると本当に『ノイズ』(noise、雑音)がほしいですね。いま自分がいる知的世界では自分の聞き慣れた声や自分の聞きたい声ばかりを繰り返し聞くけれど、反対に聞きたくない声みたいなもの、つまりは『ノイズ』がランダムな形でぱっと入ってきて『ノイズ』と出会うということが大事です。そんな『ノイズ』を人間が否応(いやおう)なく聞かざるをえない瞬間というか、そういう瞬間に出会うための仕組みを本当は作らなければいけない。古い人間といわれそうですが、その意味で新聞というのはデジタルよりもやっぱり紙の方がいい。なぜかというと、紙の新聞には一つの紙面にいろいろな情報が詰め込まれていて、自分が知りたいと思っている情報以外の情報に必然的に出会ってしまうからです」
ーーただ、いまそれをいっても「その考えは甘い」といわれてしまいます。一つの紙面を編集したり番組を編成したりするその手さばきそのものが信用できないという批判にメディアはさらされているからです。
「難しいですね。関心のあるものだけを見ていけば、気がつくとどんどん特定のラインの議論の中にすっぽり入り込んでしまう。でも、およそこの世の中でパブリックにものを考えるためには、ふだん考えていたり聞いていたりするのとは違う『ノイズ』にあえて触れなければいけないのです」
「ただ『ノイズ』に出会うためのシステムの開発自体は、私は可能ではないかと思っているんです。現時点ではSNSを中心とするIT技術の発展が明らかに社会の分断をもたらしているわけですが、その次の段階として、その分断を乗り越えるのもこれまた技術の発展ではないでしょうか。今は分断に向かって加速しているとしても、やがて人が多様な声に接するような方向で新たなIT技術が出てくるんじゃないかと私は期待したいと思います」
――評論家の東浩紀さんは著書『弱いつながり 検索ワードを探す旅』の中で「ノイズ」に出会うための方法として、「身体の移動」や「旅」、「環境を意図的に変えること」だと指摘されました。「ネットにはノイズがない。だからリアルでノイズを入れる。弱いリアルがあって、はじめてネットの強さを活かせる」と(同書所収「はじめに 強いネットと弱いリアル」、18頁)。
「それこそ東さんらがよくいっている『ウィークタイズ』(weak ties)ですよね。『ストロングタイズ』(strong ties)だけでなく『ウィークタイズ』を用意しておいた方が本人としてもむしろ生きやすいし、結果的に知の情報量も増えて、よりよい選択ができるようになるということを実感してほしいと思います」
――自分が目にする情報は偏っているのかもしれないという「気づき」を与えるために「ノイズ」と出会う仕組みを作っていくとすると、あと一つの方法は教育でしょうか。そのためには型通りの「教養課程」の「教養教育」にとどまらない、真の意味でのリベラルアーツとその教育の重要性が今日ほど問われている時はないと思えるのですが。
「高校ぐらいまではおおよそこういうことを勉強しなければいけないというカリキュラムがきっちり決まっているのに対して、大学というのは『巨大な知的ザッピングの世界』であって、思いがけないものにどこかで出会う場であるべきなのです。ところがいまの時代、世の中自身もそうですがあまり無駄とか非効率を許さない風潮が強く、なるべく最短で目的を達成しようとする。その目的は何だかはよくわからないけれど、『とにかく有効に限られた時間の中で最も効率よくパフォーマンスを仕上げるために何かをやりなさい』という方向で若い人たちに圧力をかけている。『早いとこ業績を上げないとあなたは淘汰(とうた)されてしまいますよ』というメッセージを若い人たちに対して社会がよってたかって与えている」
「思いがけないところに思いがけない先生がいて、その話を聞いてみたらこんなにも知らない世界があるんだということに出会う。そういう『巨大なザッピングの場』としての大学の機能というものを何とか現代的な形で生かせないかなという気がします。思いがけない人と出会って話をして、そこから何かが始まるという可能性を最大限に生かさなかったら、大学の意味はもはやなくなっていくのではと考えるからです」
――例えば東京大学では新入生に対して、そうした「ノイズ」に出会わせるような場、あるいは「知的ザッピング」の面白さを体感させるようなカリキュラムを用意しているのでしょうか。
「いまの大学の大きな趨勢(すうせい)としては、基本的には専門教育を前倒ししてなるべく1年生の最初から効率的にある専門をマスターさせるようにしています。さらに法律を専攻する場合は1年の時から司法試験を目指して勉強し、そのためにはダブルスクールで予備校にも通って最短の道のりで司法試験に合格するというモデルもあったりします。でも、こうしたことに対する揺り戻しの動きも起きていて、『やっぱり教養課程をしっかり学んでおかないとその先、専門課程に進んでも伸びない』といわれている。その意味では教養が復権しつつあるともいえるでしょう」
「これはそれこそ米国のコロンビア大学にしてもハーバード大学にしてもそうであって、この時期により強い足腰を作るためには、AIを学ぶ一方で、人文社会科学の古典を読ませるなど、なるべく広いものに触れさせるということが行われています。これは世界的な傾向であって、それが日本でも『脱教養』に対する揺り戻しとして現れてきている。だから東大でも教養課程をつぶさなかったので、教養課程を再編する中で教養の理念を現代に生かそうと工夫しています」
「その一方で学問、知の世界には一つのお作法、ディシプリン(discipline)があるんです。『専門』という意味と同時に『しつけ』、『訓練』というニュアンスもある。広い教養が重要だということと同時に、他方においてはやっぱり専門ということが重要です。知の世界はそれぞれの世界に約束事があって、その約束事をマスターして知の専門家集団の中で評価されていかなければならない。そのための経験というのはやはり必要だと思います。しつけ、矯正にはちょっとめんどくさいところがあるけれど、それをやらないと専門家にはなれないし、世界にいる同業者たちに認められない」
「『ピアレビュー』(peer review)という言葉があります。その『ピア』(peer、同僚、仲間などの意)というのはなかなか面白い言葉だと思うんです。ピアレビューというのはいまでいうと、大学の論文の査読システムを指します。ある論文が提出されると専門の同業者たちが評価したりコメントしたりアドバイスをして論文の評価を決め、雑誌に掲載するかどうかを最終的に決める仕組みですが、もともとピアというのはヨーロッパにおける『貴族』たちを指す言葉ですよね。現代においては貴族というよりも、世界中に知的な同業者たちがいてその人たちによる評価を受けねばならない。逆にいえば、そういった人たちの評価を受ければ世界的に活躍できる。その意味で、ピアというものがグローバリズムの時代に重要だと思います。このピアの一員になるためにはある種のお作法が必要なのです」
――定義が様々ですが、いわゆる「リテラシー教育」についてはどう考えますか。
「知の世界でピアに認めてもらうためにはこの程度のことをしなければならない、ということが厳然としてあるのですが、その点が日本はどうも弱い。大学の教員ですら、同じ自分の専門分野で世界とつながっているというよりは、自分の大学、所属する機関のほうにどちらかというと忠誠心があって、『世界にピアがいる』という意識が弱い。熾烈(しれつ)な競争相手ではあるけれど、世界に広がる仲間であるピアとのつながりを厚くすればするほど自分の立場も良くなるんだ、という感覚はまだどうも身についていません」
「ですから、私は究極のリテラシー教育というのは、何らかの知的なお作法を学ぶことによって世界に広がるピアの一員に入れてもらうことであって、それはあなた自身を強くすることだという感覚がそこにあってほしいなと思います。いまの時代、トクヴィルじゃないですけど、『多数者の専制』、『多数者の声』に従っているだけというのは一番不安です。かといって特定の信頼できる先輩みたいな権威者がそばにいてくれたらいいけれど、出会えないかもしれない。となるとやっぱり大切なのは何らかのピアをどこかで見つけてそれによって自分を強くする、そして世界に仲間を見つける、そのためにリテラシー教育があるのだと思うんです」
――なるほど、ふつういわれる意味でのリテラシー教育ではなく、世界各地にいるピアとつながるための教育だ、と。
「リテラシー教育といっても、正直いっていまの時代、ほんとうにいろいろなものをすべてマスターして知的に調べる方法なんて学生に教えられないですよね。私は思想史の人間ですから古典のテクストをどうやって読むかということは教えられますけど、データを集め、その量的なデータをどうやって正しく分析し『これはいい調査』『これは悪い調査』であると見分けるのかといっても、僕自身には教えられません。だからこそいまの時代、たぶんひとつの分野で何らかの訓練を受けて世界にピアを見つけることが大事なのです。そしてこれにはその次の段階がある」
――次のステップ、ですか。
「いまの時代、生きて行こうと思ったら特定のピアを見つけてその集団の一員として早く認めてもらおうことが大事ですが、それを達成したらもう一段、外の世界にそれを広げると面白いということです。そしてそれがより高度なリテラシー教育なのではないでしょうか。一つの分野で専門家になったとしても、違う分野ではしろうとですからね。人生、いろいろなところでリテラシー教育の場が開かれていて、自分のディシプリンを複数化、多様化する機会があちこちにあるというのはいいことだと思います。私はリテラシーというのは何も若い人たちだけのものではなくて、いろんな人が人生のいろんな段階で、もう一回違うお作法を身につけて、『違うピアを見つけたい』と思った折々にその機会と場がその人に提供されるべきだと思っています」
――話題を少し変えますが、ネット空間にはフェイクニュースとともに様々な「炎上商法」や「炎上商法」的なやり方が散見されます。
「そこで何がいわれているのかというと、これまでのいわゆる良識派とされていた人たちが持っていた『これは間違いない事実だ』という通念や常識みたいなものにあえて異を唱えてみせるということですね。何の根拠がなくてかまわなくて、とにかく否定してみせる。その結果相手が反論してくれたらしめたものという感覚。ちょっとでも反論が出たならばその『倍返し』でより激しく相手を否定してみせるやり方で騒ぎを大きくしていく」
「そうなるともはやどっちが正しいかなんてわからなくなって、少なくとも『どっちもどっちだよね』というふうにみんなが思うようになるのでそこまでを見越して騒ぐ。いままで知のエスタブリッシュメントが持っていたものをとにかく否定しよう、しかも強く激しく否定しよう、それで相手がかまってくれたらしめたものだーー。この商法がいまどこでもはやっていて『成長産業』になっています」
――どう対応すべきだと考えますか。
「短期的にはこの炎上商法には引っかからないようにしようということですね。相手にしただけで向こうにとっては『おいしい』わけですから。もし相手にしてぐちゃぐちゃになってある種の罵倒合戦になったら、相手と同じ水準に落ちてしまうということにもなる。だから相手の炎上商法には乗らないというのがとりあえずの戦略ですが、『次のステージが来る』という気もします」
――次のステージといいますと。
「つまり、とりあえず派手に炎上させればいいんだという人たちの手法がだんたんわかってきて可視化された、見えてきてしまったということです。トランプ大統領が一番わかりやすい例ですが、あの人たちのある種の迫力に一気に持って行かれた段階は少なくとも脱してきて、みんなの目が肥えてきたかなと感じるのです。僕は長い目で見れば、人のものを見る目というのは進化すると考えていまして、炎上商法の一発芸もそろそろ限界が見えてきたと思います。となると、『激しく否定してかかるだけが正しさの基準ではない』となった時に、やはりどこかで、人間の中には誠実さみたいなものを求めるところがあると思うんです。明らかにウソだとわかることをいってはいけないとか、かつていったことと180度違うことをいって平気な顔をしているのは人間としておかしいのではないかという感覚が社会に出てくると思う」
「その時に『新たな知的な誠実さ』みたいなものを誰が担えるかということが非常に重要で、炎上商法的なあり方の次に来る『新たな知的誠実さ』のプラットフォームを誰が担うか、そのためにはどういう準備と投資をしたらいいか、そこに知恵を絞ることではないかと考えます。炎上商法的手法に反撃する段階はやがて必ず来る、あるいはやや楽観的かもしれませんが、すでにその時期が来つつあるのではないかと思っています」
――「新たな知的誠実さ」という名前のプラットフォームの一翼を担えるかどうか、既存のメディアにとってはまさに正念場だと思いますが、その一方で「メディア不信」が声高に叫ばれる中、勢いを増すフェイクニュースに抗うためにメディアにはいま何が必要だと思われますか。
「あまり明確な答えはないのですが、広い意味でいうとやはり批評だと思うんです。日本語で『批評』というとややもすれば悪口というニュアンスが強いですが、クリティークの本来の意味は、広い意味での目利きの機能のことを指したわけで、批評ってもっと面白いものなんですよ。人間というのは一定以上の情報がわっと押し寄せると判断不能に陥ってしまいがちですが、そんな時、例えば評論家の東浩紀さんの『ゲンロン』のような取り組みが面白い(注:現在、東氏は『ゲンロン』の代表を退いている)。東さん自身が批評家で『これはいい』『これは面白い』と目利きの機能を持って批評をしていますが、同時に若い人を育てようともしているんですね。批評家としての能力の高い人を中心に会員を募って組織を運営していくというスタイルも、ある意味でいうと新聞などのマスメディアが対抗してもっと意識しなければいけないと思います。新聞には精度の高い情報が多様な形で集まってくるということはもちろんありますが、いまの時代はどこか俗人的なものがないと人々の関心を集めることはできないのです」
「俗人的な要素、そしてそこにある種のナラティブといいますか、語り的な要素が加わるとさらにいい。『独断と偏見かもしれないけど、少なくとも自分がこういうふうな価値基準でものを見ているし、それに対する批判も受けつける』という開かれた態度をメディアが持っていることが大切でしょう。大きなメディアも個人商店的なものを疑似的にでも採り入れてはどうでしょう。『私たちには好き嫌いは一切ありません。あくまで客観的です』というだけだと、魅力もなくなってしまいます」
「もちろん狭い意味で好き嫌いだけで自分たちの宣伝をしているというのでは社会の公器としてのメディアの役割に反してしまいますが、『好き嫌いの高度化』というか、『より高度化された独断と偏見』というか、そうした部分にもある種のコミットメントする感覚がないと人をぐっと引きつけることは難しい。ある種の『俗人性』と『高度化された独断と偏見』、より開かれた『好き嫌い』みたいな要素をどこかで取り戻す必要があるのではないか。その点、新聞を含めたメディアはどうもまだ何となく腰が据わっていない感じがします」
――メディアの両論併記的な報道に対しても批判が強まっています。
「結局、メディアが何にもコミットしていないんじゃないか?という疑問ですよね。ある問題に対する両者の言い分を等しく紹介するって、それは一番安全ではあるけれどずるいやり方です。『客観的なデータと情報源が大事といいつつ、何にもコミットしないで自分は安全圏に逃げ込んでいる』というふうに思われてしまう。
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