NTTデータに就職 MBA留学を目指したバリキャリがスローライフに
2019年06月19日
終身雇用制が揺らぎ、今や自分でキャリアデザインをしていくことが前提の社会になってきている。30年後の自分を描き、第一希望のNTTデータに就職してMBA留学を目指したが、今はライフシフトして長野県小布施町を拠点に活動している男性がいる。そこには、「バリキャリ」志向から「スローライフ」志向にというほど単純ではない選択があった。
ライフシフトをしたのは、塩澤耕平さん(32)。
学習院大学時代には、広告研究会の代表としてミスコンテストを主催した。「リーダーシップを取ったのは初めての経験で、その後のキャリアデザインにも影響しました」と振り返る。
就職先の選択肢は大きく分けて二つ。一つは、マスコミ。もう一つは、医療にITがからんだ分野だった。「ソリューションを提供することが魅力的」と考えていた。MBA的手法の就活塾にも通った。そこで学んだキャリアの考え方はこうだった。
「30年後どうなりたいかを考えました。そうなるためには20年後や10年後にどうなっているのか。今から3年後にどうするのか、そしてそのためには今何をすべきなのかを考えるようにとたたき込まれました。最終的なゴールを目指すために、いかに階段を上っていくか、という中でのキャリアデザインです」
影響力が強くて問題解決ができる企業はどこかと考え、第一希望のNTTデータに就職できた。その後、MBAを取るために海外留学し、グローバルな人材になって「何か輝かしいヘルスケア分野でのITのキャリア」を描こうと考えていた。
「大学4年から社会人3年目ごろまでは、周囲の人たちもいわゆるバリキャリ系で、社会起業家というよりはコンサルティング企業やベンチャーキャピタルに行きたいという人たちと付き合うことが多く、強く影響を受けていました」
そのころ、友人の紹介で参加し始めたのが、「ヘルスケアリーダーシップ研究会」(IHL)だった。在宅診療を中心に日本の医療をイノベーションしようとしていた医師の武藤真祐さんが代表を務めるヘルスケア系のリーダーシップ勉強会です。武藤さんは、元マッキンゼーのキャリアを持つ。ここでの出会いや経験から、塩澤さんのバリキャリ志向の考え方が少しずつ変わっていった。
――NTTデータは、IT業界就職人気ランキングでも1位常連の人気企業です。
私の就活をしていた2009年ころは、基本的に転勤がなく、福利厚生が良く、その割にIT系で社会的インパクトが強そうというのが、人気の理由でした。冗談で、「夜遅く帰ってくるので、パートナーが夕食の準備をしなくて済む」ということも、人気がある理由の一つだと言われていました。(笑)
――学生時代に考えたキャリアデザインで、第1希望の企業に就職しつつも、なぜ、転職したのでしょうか。
3年間営業をしていましたが、上司にも恵まれていました。しかし、IHLでの仲間は、医療の道を究めるような専門職的な生き方をしている人が多く、コンサルティング企業の同年代の知人たちからはどんどん実力を付けていく話を聞いていて、強いあせりが止められなくなってきました。
NTTデータの環境の中でどれだけ自分が成長できるのか悩むようになり、仕事で成果が出せない時期も重なり、「自分の中で変化が必要ではないか」と考えるようになりました。2011年3月11日の東日本大震災の後で、そういう社会情勢も影響していたと思います。
――あのときの時代の空気は、自己の利益だけでなく、社会にどれだけ役立てる人材になれるのか、または社会を変えられるチャンスだと考え、覚悟を決めて動き出した人が多かったですね。
横目で見て焦っている自分がいました。自分のキャリアはこれでいいのかと……。そんなとき、IHLの武藤さんに言われた「君もそろそろリスクテイクしなさい」という言葉が、心に残るようになりました。
――大手企業でのキャリアパスを捨てるという覚悟は簡単に決められたのでしょうか。
お恥ずかしい話ですが、私はそれほど「自分のキャリアを捨てて、被災地のために何かをしたい」という感じではありませんでした。11年12月、初めて石巻に行きましたが、そこに集まった人たちには、何かしたいというエネルギーが満ちあふれていました。武藤さんが経営する在宅医療クリニック「祐ホームクリニック」は、震災から半年後に石巻にも開院していて、企業や大学、NPOと連携した医療プロジェクトがたくさん始まっていました。ここに転職すれば、自分のスキルやキャリアを向上できると思いました。今思えば、すごく打算的な選択だったのです。
――NTTデータを退職して、武藤さんが展開するクリニックに転職し、石巻で働き始めました。学生時代に描いた30年後の目標は変わりましたか。
ヘルスケアの世界であるポジションを取るということは、変わらなかったです。石巻には3年間いましたが、多くの出会いがありました。4年目に東京に戻してもらい、シンガポールでの新規事業に関わることができました。16年1月、ベンチャー企業の株式会社インテグリティ・ヘルスケアの立ち上げに誘われました。MBAとヘルスケアベンチャーの立ち上げの経験のどちらが役立つのかと問われました。ベンチャー企業で、優秀なソフトウェアエンジニアやデザイナーと関わっていく中で、MBAが本当に必要なのか考えさせられました。結果として、MBAに行くことをやめることに決めました。フラフラしすぎですね(笑)
――「Global Shapers Community Tokyo」(グローバル・シェーパーズ・コミュニティ・東京ハブ)(世界経済フォーラムの国際組織で様々な分野で活躍している30代前半の若者で構成)にも参加されていましたが、グローバル・シェーパーズでの付き合いも影響があったのでしょうか。
グローバル・シェーパーズには、すでに自分の専門を見つけてどんどん先に進んでいくメンバーがたくさんいて、強く影響を受けました。そして、20代で基礎力を付けるフェーズと、30代で専門性を高めていくフェーズがあるとすれば、30歳までに何を専門とすればいいのかと考えるようになりました。
インテグリティ・ヘルスケアの起業フェーズはとても面白かったし、優秀なメンバーがどんどん入ってくるのでスキルも上がっていく実感がありました。ただ、こうも考えるようになりました。
一つのプロダクトをローンチして、ある施設で利用してもらい、これを火種にして営業をしていく――。
こうしたことを繰り返して、5年、10年先にベンチャー企業を上場させることや、それに伴いストックオプションをもらうことに向けて自分の時間を使うことが、良いのかと自問しました。そうしたことに35歳、40歳までを過ごしてしまうことに違和感を覚え出しました。その時点では、自分の専門性を医療とITに絞っている自分に違和感があったのだと思います。
――違和感がなかった時期はあったのですか。
東北で仕事をしていたときの自分です。東京で優秀な人を集めて、ソフトウェアをエンジニアリングして世界を変えるよりも、ローカルで何かを変える方に魅力を感じていました。例えば、石巻の「はまぐり堂」というカフェがあります。蛤浜という集落の空き家を改装してカフェをやっている人たちがいて、その人たちにひかれている自分がいました。元々、定年後には、故郷の駒ケ根(長野県)に戻ってカフェを開きたいと考えていたことが影響していたのかもしれません。
――もう少し詳しく教えてください。
はまぐり堂のように、様々な人が集い、ふとしたところからプロジェクトが生まれたり、関係性が生まれたりすることが、自分の生き方として腹落ちしてきました。グローバルジェーパーズのメンバーが紹介してくれて知った、西国分寺(東京都)の「クルミドコーヒー」のコンセプトも気に入っていました。あえてローカルに根ざして、自分の時間や価値観を大切にするというのが、私には府に落ちていました。だから、キャリアデザインを変えることにしました。
――その後、長野県小布施町に拠点を移しますが、小布施には縁があったのでしょうか。
29歳の時、「地域で働きたい」と思ってインテグリティ・ヘルスケアを辞めました。実家の酒屋を継いで、土蔵を改装してカフェにしようと考えていました。ただ、両親もまだ元気で仕事を続けていましたので、すぐには始められなかったのです。そんなとき、グローバルシェイパーズの知人だった大宮透さんに相談したところ、大宮さんが関わっていた小布施町の若者会議に誘われました。17年2月に初めて参加しましたが、参加者の7割以上が県外で活動している人です。
――インテグリティ・ヘルスケアを辞める時は、結婚していたのですか。
結婚していました。妻は今、再生可能エネルギー会社の「ながの電力」のフィールドマネージャーとして働いています。妻も武藤さんのもとでキャリアを積んでいました。妻には語学留学する夢があったらしく、私のMBA留学に合わせて行こうとしていました。私がMBAへの道を捨てたため、一緒に留学する道は断たれましたが、退職して半年間、イギリスに語学研修に行きました。
一方、私は小布施の若者会議に参加しながら、一般社団法人を立ち上げて町の遊休施設を再活用する取り組みの準備を始めました。コワーキングスペースを提供する「HOUSE HOKUSAI」(ハウスホクサイ)です。妻も、ここが形になってくるタイミングで長野なら引っ越してもいいかなと理解を示してくれました。
――退職した後はフリーということですか。
三つの仕事をしています。一つは、小布施町の「地域おこし協力隊」です。これは3年間の任期ですが、兼業を認めていただいています。
もう一つは、カナダのネットショッピングプラットホーム「shopify」をローカライズする仕事です。ネットショップをやりたい会社から依頼を受けて、エンジニアとデザイナーとの間に入ってネットショップを構築して、運営するディレクターという仕事をフリーで行っています。これは遠隔で仕事ができます。
三つ目は、ハウスホクサイの運営です。会員から月額の利用料をもらっています。建物は町から借りていますが、これまではギャラリーとして年間10日ぐらいしか使われていませんでした。若者会議では、使われていない期間を有効活用し、クリエーターが集う場にしようと考え、ハウスホクサイを始めました。
――小布施を拠点にした今の塩澤さんは、10年後、20年後の青写真をどう描いているのでしょうか。
今は、新たに小布施周辺でカフェを始めようと考えています。人が集って、そこで何かが生まれていく場所づくりをしたいと考えています。今の私には、「はまぐり堂」、「松華堂菓子店」や「クルミドコーヒー」のオーナーたちのような生き方が府に落ちていると思っています。
自分には、20代でのビジネスバックグラウンドがあります。その人たちとのつながりも大切にしながら、カフェやコワーキングスペースから何かが生まれていけばと考えています。小布施に葛飾北斎がやってきたのも、高井鴻山というパトロンがいたからです。その結果、小布施の岩松院の天井絵などが残されたのです。
あそこにあるアロハシャツは、京都の「Pagong」(パゴン)というブランドが売り出したものです。京都の亀田富染工場という京友禅の会社が手がけるブランドです。そこの亀田富博さんは、グローバルジェーパーズで一緒でした。あるとき電話がありました。「北斎の『波図』の図柄でアロハができないか?」「美術館に許可を取りたいので紹介して欲しい」。こういうコラボレーションも始まっています。
東京一極になって経済発展する未来と、それなりの文化的レベルを保ついくつかの地方都市が経済と文化を担う未来――。
今後、このどちらを目指した方がいいのかと問われれば、私は後者を選びます。その拠点の一つに、北信濃がなればいいなと思いながら活動しています。
――変われる人と変われない人がいます。東京の生活、収入、家族……。こういう現実的なところで変われないという人と、もう一つは日本の社会や会社の仕組みが変わって、追い込まれてライフシフトを考えざるを得ない人がでてきています。どう考えますか。
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