京友禅の現場から見えてくる京都クライシス
地元の人が去り、コミュニティーがなくなっていくのは心が痛みます。
亀田富博 株式会社亀田富染工場 / PAGONG 取締役、小布施北斎館 若者委員、Global Shapers Kyoto Hub

昭和時代の亀田富染工場=筆者提供
京友禅の染屋として1919年に京都の街の中心岩上四条の地で創業した、「亀田富染工場」を家業する家に私は生まれました。
初めは小さな染屋でしたが、初代富太郎の妻ふさえが戦時中に赤や黄色などの明るい染料を蔵の下に隠し、戦争が終わると明るい着物を世の中の人は着るはずやと、蔵の下の染料を取り出し染めたところ評判となり、亀田富染工場の着物が京都の人たちに着られるようになりました。
2代目富三の時代には、機械捺染を海外よりいち早く取り入れ着物の量産化に成功。100人以上の染職人が染めに従事していました。しかし日本人の生活スタイルが和から洋へと変わる中で、着物を着る人が激減。業務縮小を余儀なくされ、平成に入ってからは、染めの仕事の内100%が洋服生地となり、決められた柄を染める下請け、孫請けの染屋になっていました。

着物の需要が盛んだったころの機械捺染を操作する職人=筆者提供
しかし、父の和明と叔父の憲明がもう一度、友禅染の美しさを世の中の人に知ってもらいたいと試行錯誤しました。そんな中、アロハシャツの起源は、日系移民の持ち込んだ着物がルーツだと知ります。そこで蔵に眠る図案を染めてアロハシャツに仕立てたところ、評判がよく、「Pagong」というブランドが誕生しました。Pagongとはタガログ語で幸せを運ぶウミガメを意味します。2019年は長野県小布施町にある「北斎館」の協力を得て、北斎の肉筆画の上町祭屋台天井絵「怒涛」の図の「男浪」を友禅染で復刻しアロハシャツを制作しました。
京友禅アロハシャツ Pagong
このように、家業の歴史を振り返るだけでも、みなさんがイメージする「京都」を形作ってきた文化や産業が大きく変化してきていることが分かるでしょう。

北斎「怒涛図男浪」を友禅染めで復刻=筆者提供
海外で暮らしたからこそわかる京都の文化

筆者の亀田富博さん
私は、京都の街の中心に生まれ、この街で育ちました。大学生時代に海外を旅し、卒業後はイギリスのロンドンに滞在するなど、時には京都という街を離れたところから客観的に見てきました。
1年の海外生活を終えて京都に帰ってきた時には、自分を育んでくれた京都が好きになりました。
大切に残されてきた神社やお寺。
京町屋が並んだ路地裏。
何十年も続く料亭の料理人や物つくりに励む職人さん。
商店街や住んでいる人たちの和気あいあいとした和やかな様子。
街の中にも小さな神社や、お堂がそこらにあり、それらを住民の人たちが世話をし、その土地を守っている姿に感銘を受け、京都は現代的な街でありながら、日本文化が根強く残っている街なのだなと感じました。