実権は民政局(GS)から参謀第二部(G2)へ。占領時代の遺産を修正すべき時
2019年07月29日
1945年から1952年まで、日本は米国を中心とする連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の支配下にあった。
当初、力を持っていたのが民政局(GS)。局長はダグラス・マッカーサー司令官の腹心といわれたコトニ―・ホイットニー准将。その下にニューディーラーだったチャールス・ケーディス大佐、アルフレッド・ハッシー中佐、マイロ・ラウエル中佐等がいたのだった。
現在の日本国憲法はこの3人が中心となって1946年2月4日から2月12日の9日間でつくられたのだった。
この時の日本側の総理は弊原喜重郎(1945年10月9日~1946年5月22日)、外務大臣は吉田茂、厚生大臣は芦田均だった。
占領下でもあり、日本政府はGHQ案を受け入れざるをえなかった。ただ1点、いわゆる芦田修正(自衛のための軍隊を持つことを可能にした)はケーディス大佐によって受け入れられたのだった。
後日、ケーディス大佐は受け入れた理由を「個人に人権があるように、国家にも自分を守る権利は本質的にあると思った」からだと述べている。
そして、芦田修正を含んだ憲法草案は貴族院、衆議院で可決され、日本国憲法は1946年11月3日に公布され、翌1947年5月3日に施行されたのだった。
憲法公布・施行の時の日本側は第1次吉田内閣、外務大臣は吉田茂が兼務している。
ただ民政局(GS)は保守主義者吉田茂を好まず、日本社会党の片山哲総理を実現し、外務大臣には芦田均が民主党代表(総裁)として参加している。
片山内閣は1年弱の短命で終わり、1948年3月10日には芦田均が総理大臣に任命されたのだった。
実は、筆者の父、榊原麗一は芦田の補佐役として総理大臣秘書官になっている。
しかし、いわゆる昭和電工事件(昭和電工社長日野原節が政治献金をして復興金融公庫からの融資を目論んだ事件)で芦田内閣は崩壊、民政局のチャールス・ケーディスも収賄疑惑に巻き込まれ、アメリカへの帰国せざるをえなくなったのだった。
こうしてGHQの実権はGSから参謀第二部(G2)に移り、いわゆる「逆コース」路線が定着し、国内的にはG2と親しかった吉田茂のリーダーシップが確立していったのだった。
1947年にはGHQが2.1ゼネストの中止命令を発し、1949年には下山事件・三鷹事件・松川事件等の国鉄3大ミステリー事件と呼ばれた事件が発生。共産党や労働組合の関与が疑われ、1950年にはレッドパージが開始され、日本共産党幹部が身柄拘束されることになったのだった。
1950年には朝鮮戦争が勃発、警察予備隊が創設されたのだ。
また、公職追放解除、A級戦犯の減刑・釈放等が相次いで行われ、岸信介も無罪放免され、1952年のサンフランシスコ講和条約の発効を機に公職追放を解除され、復権していくことになったのだった。
その後岸は活発に政治活動を行い、衆知のように、1957年から1960年まで内閣総理大臣を務めている。
実は、現在の日本の法律的・政治的骨格はこの7年の占領時代につくられている。
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