日本の法律的・政治的骨格を作った7年の占領時代
実権は民政局(GS)から参謀第二部(G2)へ。占領時代の遺産を修正すべき時
榊原英資 (財)インド経済研究所理事長、エコノミスト

GHQの指導によるレッドパージに対抗し全学連は「赤色教授追放」反対の闘争を強め、東京都学連がゼネストを決行した。東大の学内では、大学当局の禁止を無視して「レッド・パージ計画粉砕全学総決起大会」が開かれた。大学側は6つの門を閉めて、外部からの流入阻止を図ったが、学生が中から正門を開き、警官隊ともみ合いながら早大生を迎え入れた。他大学の学生も含む2000人が集まった=1950年10月5日、東京・本郷の東京大学構内
参謀第二部(G2)の時代
実は、筆者の父、榊原麗一は芦田の補佐役として総理大臣秘書官になっている。
しかし、いわゆる昭和電工事件(昭和電工社長日野原節が政治献金をして復興金融公庫からの融資を目論んだ事件)で芦田内閣は崩壊、民政局のチャールス・ケーディスも収賄疑惑に巻き込まれ、アメリカへの帰国せざるをえなくなったのだった。
こうしてGHQの実権はGSから参謀第二部(G2)に移り、いわゆる「逆コース」路線が定着し、国内的にはG2と親しかった吉田茂のリーダーシップが確立していったのだった。
1947年にはGHQが2.1ゼネストの中止命令を発し、1949年には下山事件・三鷹事件・松川事件等の国鉄3大ミステリー事件と呼ばれた事件が発生。共産党や労働組合の関与が疑われ、1950年にはレッドパージが開始され、日本共産党幹部が身柄拘束されることになったのだった。
1950年には朝鮮戦争が勃発、警察予備隊が創設されたのだ。
また、公職追放解除、A級戦犯の減刑・釈放等が相次いで行われ、岸信介も無罪放免され、1952年のサンフランシスコ講和条約の発効を機に公職追放を解除され、復権していくことになったのだった。
その後岸は活発に政治活動を行い、衆知のように、1957年から1960年まで内閣総理大臣を務めている。