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みんな英語がペラペラになって何をするのか?

インド、ケニア、アメリカで学んだ英語の「使い」方

吉岡友治 著述家

話す言語と書く言語の違い

 話す言語だけではない。書く言語と話す言語の間にもハッキリとした断絶がある。教育も受け、知性もある「優秀」と一般的に認められる人でも、文章を書かせるとビックリするほど幼稚になる。

 前に、財務省の官僚を長く務めた方の著書を見せてもらったことがある。大手出版社から出ている600頁を超す大著だった。「編集者が入ると、いろいろ注文を付けられる。好きなことを書きたかったので、自費出版にした」とのことだった。しかし、内容を読んで驚いた。「人類の創成は…」から始まり、いろいろな書物から寄せ集めたとおぼしき人類史や歴史の雑多な知識が並べられ、ところどころに極端に妄想的な意見が唐突に挟まる。「体験的日本財政論」かと予想していたので、呆気にとられた。たしかに、これでは校正を入れたら、ツッコミどころが多すぎてとても商業出版には漕ぎつけられない。官僚機構のトップまで上り詰めたエリートなのに、頭の中にはこんな幼稚な考えが渦巻いていたのか、と驚愕した。

 語学は、よく「聞く・話す・読む・書く」の4技能だと言われているが、このように考えると、それぞれの技能の間には壁がある。聞く・話すはできても、読む・書くができない場合は多いし、逆に読む・書くはできても聞く・話すが苦手な場合もある。それどころか、上の例のように、母語なので三技能に秀でているのに、「書く」ことだけがまったくできない場合も少なくない。そんな穴だらけの言語能力でも、とりあえず、私たちは、何とか生きていけるし、社会の中で上昇していくことだってできる。外国語だけではない。母語だって一種の「ノイラートの船」なのである。

英語論⑨拡大イメージ写真 takasu/shutterstock.com

外国語学習で何を目指すべきか?

 だとしたら、我々は外国語学習で何を目標とすべきなのか? 自分の赴く場所で何とか生きていければ十分なのである。日本で生活している限りは、英語を使う機会は少ない。たいていは日本語で用が足りる。日本だけで生きていくとすれば、英語学習に多大な時間をかけるのは愚かである。

 たしかに、外国語の教師は「正確な英語」と要求するだろう。だが、それは、彼らの職業が「正確な英語」を売り物にしているからである。難しい文法や単語や構文を教え、生徒がそれをなかなか覚えられない方が、活躍の場は増える。もしかすると、なかなかできないような英語力を要求して、なるべく長く学習してくれた方が良い。

 観光業に従事するなら、外国人を扱わなければならない。外国の観光地のガイドはいくつかの言語を操る人が結構いる。ただ、それは他にめぼしい産業がないからだ。生きていくために力を入れるのは当然だ。だが、日本は観光業に頼るのか? 自分はそういう場所で生きていくのか? それを考え合わせて学習の方向を決めていかねばならない。

 会話に限るならば、私のインドネシア語のように生活に必要なレベルだけで良い。水漏れがあったら、「水漏れ」というインドネシア語が分からなくても、現場を直接見せて「ここだよ」と言えば、すぐ納得してくれる。そのうえで「インドネシア語で何というの?」と聞けば、覚えるはずだ。次の時は、もう少し楽に話しできるだろう。

 発音もいい加減で良い。相手が分からなかったら、相手が分かる単語で言い換える。親切な友人だったら、片言の日本語くらい覚えてくれるので、チャンポンで話す。実際、アメリカ人でも発音はいろいろだ。とくに知識階級ほど世界中から来ているので、訛りも強い。シカゴの大学院で、私の担当教授だったのはフランス人で、発音はかなり仏蘭西風だったし、最初に論文の案を読んでくれたのはインド人教授だった。彼のアクの強い英語がさっぱり分からず、大げんかした。それでも結果的には何とかO.K.だったのである。

英語論⑥拡大イメージ写真 Maks Ershov/shutterstock.com

複数の言語に取り組む

 実際、複数の外国語に取り組んでみると、この感じがよく分かる。私は堪え性がないので、英語だけでなく、いろいろな語学をやってみた。まず、大学の第二外国語はフランス語。発音が楽しく、語学学校にも通ったが、会話はものにならなかった。でも辞書を引き引き、本やネット記事を読める程度にはなった。ドイツ語は文法を自習したが、大学卒業後、長い間中断。でも、辞書を引けばカフカの小説ぐらいは読める。さらに、前回も述べたようにラテン語とギリシア語も少々。これも辞書を使って、ゆっくりゆっくり読むレベルだ。会話はできない。もちろん必要もないが……。

 こんなテイタラクを、あるアメリカ人に嘆いたことがある。「結構勉強はしたのに、どれも中途半端。辞書なしでは本が読めないんだよね」と。彼は英語・日本語・スペイン語などを話す流暢なポリグロット(多言語使用者)だ。そしたら「でも、辞書を使って本が読める、っていうのは、それだけですごいことなんじゃない?」と答えてくれた。

 これで、長年の迷いが解けた。そうなのだ。たとえ、不十分であろうと、辞書という道具が常に必要でも、それを使って何かできる、という状態はそれだけで言祝ぐべきなのである。それは、ちょうど松葉杖や車いすを使って移動することに似ている。松葉杖や車いすを使わなきゃ歩けない、と嘆くことより、補助具を使ってもとにかく意図した動作ができることこそ大切ではないか?


筆者

吉岡友治

吉岡友治(よしおか・ゆうじ) 著述家

東京大学文学部社会学科卒。シカゴ大学修士課程修了。演劇研究所演出スタッフを経て、代々木ゼミナール・駿台予備学校・大学などの講師をつとめる。現在はインターネット添削講座「vocabow小論術」校長。高校・大学・大学院・企業などで論文指導を行う。『社会人入試の小論文 思考のメソッドとまとめ方』『シカゴ・スタイルに学ぶ論理的に考え、書く技術』など著書多数。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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