三菱地所で稀有なキャリアを歩む井上さん。人生を変えたのは1冊の本とルーツだった。
2019年08月05日
自分は何者なのか。こう悩み考えた末に出会った1冊の本が、その後の人生を切りひらいた。自身のルーツを振り返ることで、自分の中では点でしかなかった意識や思いがつながり、ビジョンが生まれた。三菱地所が丸の内の街づくりの一環として取り組む「食育丸の内」をプロデュースしてきた井上友美さん(40)が、その人だ。世間からは「古い」「堅物」とイメージされがちな三菱地所株式会社の中で、稀有なキャリアデザインを切りひらいている。
「学生時代は、ただ漠然と就職することに疑問を感じていたものの、やりたいことが見いだし切れていなかった時期がありました」
井上さんは、こう振り返る。
「もう少し自分と向き合う時間が欲しい」
こう考え、内定した就職を辞退し、在学中からやっていたモデルの仕事を続けていくことにした。
2001年9月12日、現場で出会った若手俳優の人からこんな言葉を言われた。
「チャレンジするなら、一度、東京に出ないとダメだよね」
アメリカ同時多発テロ「9.11」の翌日だった。
「一度しかない人生だから」。こう考え、翌週には上京した。モデル事務所に所属したものの、オーディションでは「モデルという自身が商品なので、生き方自体が否定されることもあった」。
マネージャーに「芝居を学んでみては?」と言われて通ったスクールの演出家に勧められたのが、ライフ・シフトするきっかけとなった1冊の本だった。
「『死ぬ瞬間』と死後の生」(エリザベス・キューブラー・ロス博士著)
演出家からは、本読みや演技の前に、自身の親と向き合えといわれた。目からうろこだった。親への感情や関係、生い立ちやこれまでのルーツをひもとく作業が自身の価値観の再確認をする時間となった。沖縄で暮らす母方の祖母の影響を強く受けて育ったこと、それは、医食同源や自然への感謝、「人に生かされていることに感謝しなさい」という祖母の価値観に自身が深く影響を受けていることに気づく。その価値観と思考とビジネス、それらを結び付けてくれるビジネスワード「ロハス(持続可能なライフスタイルを目指す)」に行きついた。
「私が求めていた表現とはモデルではなく、価値観を作ったり、提供したりするプロデューサー的な仕事の方が向いていると思った」
自分で作った造語「ロハス・スタイリスト」が生まれた瞬間だった。その後、三菱地所へ入社。その後退社し、沖縄移住し、出産。再び拠点を東京に戻し、三菱地所へ再入社するキャリアをたどる。
――おおざっぱに井上さんのキャリアを説明すると、大学在学中からモデル活動をして、2005年から「ロハス・スタイリスト」に、そして2007年に三菱地所で会社員として仕事をしてきたということになります。関西の大学に通っていたそうですが、学生時代、キャリアデザインをどのように考えていたのですか。
私たちの世代は、就職氷河期といわれた世代です。社会課題にアクションを起こしていくことに燃える世代でもあります。モノより人とのつながりに関心がありました。だから、納得をしてモデルをしたいというよりも、何かを模索している感じでした。
そんなとき、スクールの演出家に勧められたのが「『死ぬ瞬間』と死後の生」でした。著者のエリザベス・キューブラー・ロス博士は、緩和ケアや遺族ケアに影響を与えた精神科医です。むちゃくちゃ感銘を受けましたね。人の死ぬ瞬間は、もっと仕事をしておけばよかったなということではなく、日々の生活のささやかな喜びや思い出を振り返り、日々に満たされていたことが自分の支えとなるということに、納得感がありました。
母方は沖縄で、その価値観に影響を受け、大事だと思ってはいましたが、それがビジネスと結びついたのが当時出てきた「ロハス」という価値観でした。
私のやることは、モデルではなく、価値観をつくったり提供したりする仕事の方が向いている――。
ロハス・スタイリストを名乗りだし、ある企業のプロモーションのため、三菱地所の旧本社ビルで仕事をしていたとき、2007年にオープンする「新丸ビル」の企画を手伝って欲しいと頼まれたのがきっかけでした。
新丸ビル7階には、三菱地所が直接企画・運営をするスペースが設けられるということでした。
いいですよ、とお手伝いする感じでいたら、入社ということでした。巡り合わせですね。当時、個人で活動していましたが、個人でやれることは限られます。大きな力がないと社会は変えられないし、多くの人に届かないと思っていた時期でもありました。
――とはいえ、三菱地所に2007年に入社して2015年退社していますね。今は、一つの会社で勤め上げる「終身雇用」を前提に自分のライフデザインやキャリアデザインを考えるのではなく、自分には何が必要かを考え、それを獲得するために動いていく時代だとも言えます。
私の場合は、自分のキャリア・アップというよりは、自分のイメージしたことを実現していくことを優先していました。それを実現するために、「気づき」や「出会い」の機会を創出することにフォーカスをしてきたと思います。三菱地所では、日本の経済の中心地で、食の重要性を発信することができました。街づくりを通じて、経済の発展にこそ、人々の健康や幸せこそが重要であることを呼びかけ、街のレストランやシェフ、生産者や地方自治体、官公庁や医療などを連携させ、人々の健康を支援する「丸の内モデル」を生み出せたことは良かったと思います。
――井上さんのやりたいことと会社が求めること、これがwin-winの関係で出来ていたのだと思います。それでも2015年に沖縄移住を選択したのはなぜですか。
幼いころから沖縄に移住したいと思っていました。人と人の距離が近い、密着した地域コミュニティーで何ができるのか、ということを考えていましたね。東京で大きなことを追い求めることより、沖縄をベースに近くにいる人や家族が充実して暮らせる価値観を作ってみたいと感じ始めていました。
沖縄は子どもを生んでも隣の人が育ててくれるというような風土がありますからね。この学びはきっと地方創生の本質に突き刺さると思っていました。
――近くの人との関係、それが豊かさにつながるという価値観は、かつては密着しすぎて避けられる傾向にありましたが、今、見直されてきているのかなと思います。
沖縄では、場づくりのチャレンジをしていました。飲食店のプロデュースや地域のネットワークづくりを通じて、ものづくりや人づくりのスペシャリストの方たちとの出会いが宝物となりました。
沖縄で出会った仲間は、家族のようで、天気のことを聞くように体調のことを聞いたり、親戚にも言えないような悩みや思いを共有したり、自然崇拝の慣習が残る沖縄では、水や風といった自然やご先祖様に感謝の祈りを捧げたり、とても人間らしさがありました。そこを追い求めて沖縄に移住しましたが、そうした仲間に出会って暮らす中で、「場所」に固執しなくてもいいのではないかとも考えるように変わってきました。自分を求めてくれているニーズと自分の思いがマッチするのなら、またそれが沖縄や仲間の暮らしに還元できるなら、東京で活躍するのもいいのではないか、と思えるようになりました。
――井上さん個人のライフデザインに合わせるように、三菱地所が移住後は井上さんと「業務委託契約」を結び、取り組んできたプロジェクトを同じ職場環境で続けられたと聞きました。どういうライフスタイルだったのでしょうか。
沖縄移住した後、娘を妊娠し、実家の愛媛で出産しました。東京から離れていましたが、テレワークで仕事をしていました。業務委託契約なので毎日出社しなくてはいけないということはなく、必要があれば娘と一緒に上京し、本社近くの託児所に時間で預けたり、友人に頼んだりして出社していました。
――沖縄移住前は、今ほど社内の制度は充実していなかったということですか。
私が最初に入社した時は、「契約社員」で入社しています。復職後は、正社員の中でも「専任職」という職種です。沖縄移住をするために退職の相談を上司にしたとき、社内でもテレワークやフレックスタイムの制度導入に向けた検討をしていた時期でしたので、私の決断が少し早かったこともあり、当時としては珍しいケースでしたが、業務委託契約ということで仕事を継続させてもらうことができました。
私としては、辞めるしかない、フリーになるしかない、と思っていましたが、上司からは「継続して任せたい」と言っていただき、執務環境も変わらない形で準備をしてくれました。
――育休は取っていないのですね。
妊娠・出産した期間の働き方は、業務委託契約だったので、継続して仕事をすることができました。私が抱えていた「食育丸の内」「丸の内シェフズクラブ」というプロジェクトが10年の節目ということで、動ける時期に前倒ししてプロジェクトの仕込みを行い、大事な時だけ東京に来ていました。周囲の方々の理解なしにはなしえません。皆さんに本当に助けてもらいました。
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