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日本の成長率低下は「停滞」なのか

榊原英資 (財)インド経済研究所理事長、エコノミスト

 日本経済は高度成長期(1956~73年、年平均成長率9.1%)、安定成長期(1974~1990年、年平均成長率4.2%)を経て、1990年前後から「成熟期」へ入ってきている。1990年から2019年の年平均成長率は1%と大きく下ってきているが、一人当たりGDPは4万USドル弱(2018年で39.306USドル)と極めて高い水準になっている。

 IMFの2019年4月時点の統計によると、2019年の1人当りGDPは41.021USドルとなっている。1人当りGDPが4万ドル前後というのはイギリス(2018年、42.558USドル)、フランス(2018年、42.878USドル)に匹敵するレベル、アメリカ(2018年62.606USドル)、ドイツ(2018年、48.264USドル)よりは低いものの、欧米先進国並みの豊かさを享受してきているといえるのだろう。

 しかも、日本の所得分配はアメリカ、イギリス等に比べると平等性が高い。所得の貧富比(両端10%及び20%の格差)で日本は4.5と3.4。アメリカの15.9と8.4、イギリスの13.8と7.2に比べると極めて平等だということができるのだろう。先進国の中で、フランスやドイツは格差が少ないがそれでも、フランス9.1、5.6、ドイツ6.9、4.3と日本より高くなっている。

戦前の日本は最も格差の大きい国だった

 日本も第二次世界大戦前は強国の中でも最も格差の大きい国であった。三菱、三井、住友等の大財閥が富を集中的に蓄積し、また、農村では地主が小作人を使って富をかなり独占していた。

 しかし、いわゆる「戦後改革」で財閥は解体され、「農地改革」で地主制度は崩壊し、日本の農村は自作農がほとんどとなったのだった。

 こうした「改革」を主導したのは「占領軍」の民政局だった。民政局にはいわゆる「ニューディーラー」も多く、占領時代前半の「改革」と主導したのだった。民政局長はコートニー・ホイットニー准将だったが、日本国憲法の作成等の変革の主導権をとったのは、次長のチャールス・ケーディス大佐、アルフレッド。ハッシー中佐、およびマイロ・ラウェル中佐等だった。

 現在の日本国憲法はこの3人が中心となって1946年2月4日から2月12日の9日間でつくられた。

 こうした改革派の元ニューディーラー達と協力したのが片山哲・芦田均等の社会党・民主党政権だった。

 しかし、芦田内閣はいわゆる、昭和電工事件によりわずか7ヶ月あまりの短命内閣に終わった。昭和電工事件は1948年に起きた贈収賄汚職事件。この事件により、チャールス・ケーディス大佐等も失脚、占領政策の主導権は民政局(GS)から参謀第2部(G2)に移ったのだった。

 1950年に朝鮮戦争が勃発すると、反共の砦としての日本の保守派の重要性が増し、吉田茂が政権を取り、戦後日本政治の基盤を築いていった。吉田茂は全権代表として1951年9月8日サンフランシスコ平和条約を締結。また同日、日本とアメリカ合衆国の間の安全保障条約を結んだのだ。連合国の占領は終了し、日本は再び独立を回復したのだった。

 吉田茂はその後、1954年まで合計で6年間総理大臣を務め、戦後の日本の復興を政治面から支えていった。1955年にはいわゆる保守合同によって自由民主党が結成され、その後の戦後政治になっていくことになった。

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成長率低下は「停滞」ではなく「成熟」

 政治の安定とともに、政策の主要課題は経済のうつり、池田勇人首相(1960~1964年)は「所得増税計画」と掲げ、いわゆる「高度成長」を実現していくことになる。前述したように、日本経済は、その後、高度成長期・安定成長期を経て、「成熟期」へ入っていくことになる。

 一部には、1990年頃からの成長率の低下を「停滞」と呼ぶ論者達もいるが、これは停滞ではなく、成熟ということなのだろう。

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