福島と嫌韓~映画『一陽来復』尹美亜監督に聞く
被災者、こころの再生の軌跡/韓国公開と在日韓国人であること
原真人 朝日新聞 編集委員
人は人とのつながりの中で生かされている
――被災地を取材したNHKや民放のドキュメンタリー番組はたくさんありました。6年たってからでもそれらと違う作品にできる、という確信はあったのですか。
なかったです。でも違うものを撮らなければいけないとも思いました。『サンマとカタール』のとき、女川町ではテレビ取材に対する住民の反応は必ずしも肯定的なものばかりではありませんでした。なぜかというと、報道番組というのは事前にこの問題を採り上げようとストーリーをおおかた決めてやってくる。大多数の住民は問題にしていないのに、メディア側は問題視して何かあぶり出そうとする。たとえば『復興住宅の闇』といった具合に。実態とかけ離れた報道をされるのは本当に腹が立つ、と住民たちは言っていました。
だから、あらかじめストーリーを作っていくのはやめよう、意図をもって撮るのはやめよう、と思いました。映画の場合、DVDにもなって何十年も残ります。彼らが何年もたってから改めて観たときに、不快になるようなことは絶対にしたくないと心に決めました。
とはいえ、どんな映画になるかわかっていたわけではありません。最後の編集作業のときまで模索を続けました。結果的には、絶望を生き抜いた方々が教えてくれることを描く作品になったのではないかと思っています。
――映画で一番伝えたかったのはどんな点ですか。
喪失に向き合ってとことん悲しむ。弔いながら人生を再構築する。人間にはいざとなればそんな力がある、ということ。(東日本大震災のような)究極の事態に直面しても、人には生きていく力があって、人と人がつながることでその力がわいてくるということです。
映画にも登場していただいた宮城県石巻市で木工の仕事をしている遠藤伸一さんが、こんなことをおっしゃっていました。「自分を助けてくれたのはお金でもなく、避難所やハコモノでもなく、人の気持ちだけに励まされて、自殺もせず、こうして生きて来られた」と。
遠藤さん夫妻は3人のお子さん全員を津波で亡くされました。絶望のなかで、たぶん本当に死のうと考えたこともあったのだと思います。でも夫妻がいた避難所にはたくさんのお年寄りがいて、若手だった夫妻に食料・水の調達、トイレの始末、ケガや病気の人の世話など、毎日やらなくてはならない役割をたくさん与えたそうです。あとで振り返ってみれば、夫婦がよからぬことを考えないように忙しくさせよう、けっして一人にさせないようにそばに誰かがいようと、お年寄りやボランティアが考えてくれたのだろう――そう遠藤さんは言います。
きょう一日生き延びるために集中することで最初の数カ月が過ぎ、いろんな方たちとつながっていくうちに何年も時がたつ。たどりついたのは「人は人とのつながりの中で生かされている」という理。遠藤さんが生きてそのことを伝えてくれるということは、なんと貴いことだろうと、私は身震いします。
遠藤さん夫妻の笑顔に接するとき、人が背負うものの大きさ、自分が生かされている意味を考えずにはいられません。そして、きっと似たような境遇の方々が大勢いるにちがいないと思ったのです。

尹美亜(ユン・ミア)監督
◆監督 尹美亜(ユン・ミア)
1975年生まれ。長野県佐久市出身。津田塾大学国際関係学科卒。大学時代にカナダ留学。卒業後はインドのタゴール国際大学でデザインを勉強。帰国後、広報代理店やIT企業の広報担当を経て映画の世界に入り、日米合作映画で日米を往復してプリプロダクションを担う。NHKのドキュメンタリー番組の制作に参加後、2010年から平成プロジェクト(『一陽来復』の制作・配給元)に参加。被災後の宮城県女川町を描いた『サンマとカタール 女川つながる』には制作プロデューサーとして参加。監督作品は本作が初めて。