江戸時代の日本は「小さな国」ではなかった
平和で平等なその後の日本の原形をつくった江代時代を再評価する
榊原英資 (財)インド経済研究所理事長、エコノミスト
薩長はポピュリズムに乗って幕府を倒した
江戸時代は通常「近世」と呼ばれているが、特に幕末は「近代」の要素を充分に備えた社会だったのだといえるのだろう。
たしかに、明治維新後、日本は廃藩置県を実行し、さらには内閣制度を創設、大日本帝国憲法を発布し、帝国議会を開催する等急速に近代国家としての体制を整えていくのだが、その準備は幕末に江戸幕府によってなされていたのだった。
1853年の「黒船」の来航後、幕府は日米和親条約を結び、時の老中阿部正弘は積極的に開国政策を進めていった。阿部のあとを受けて老中首座になった堀田正睦も、その後大老に就任した井伊直弼も開国政策を維持していった。
開国政策に反対したのは孝明天皇とそれを支えた長州・薩摩・土佐等の尊王攘夷グループだった。
西郷隆盛は明治維新後、「攘夷は幕府を倒すための口実にすぎなかった」と述べているが、西郷自身もある時期まで(おそらく1863年の薩英戦争で大敗するまで)は本気で攘夷を奉じていたのではないだろうか。
明治維新の最大の皮肉は薩摩や長州・土佐等が攘夷論を掲げて幕府を倒したことだった。しかし、開国は大きな時代の流れだったので、薩長土肥も維新後、当然のように、開国政策を進めたのだった。
当時の世論は圧倒的に攘夷・薩長等はこのポピュリズムに乗って倒幕を果したのだが、結局は幕府の政策を受け継いで開国政策を積極的に推し進めることになったのだ。

筆者不詳「日本橋鳥瞰図」(部分)江戸東京博物館提供