自己責任はどこまで認めるべきか
2019年11月01日
21世紀になってから、社会格差については「自己責任」のタームで語られることが多くなった。たとえば、最近、ある人が、自分の給与が勤続12年でたった14万円だと嘆き「日本終わってますよね?」とツイートした。そうしたら、間髪を入れず、事業家の堀江貴文氏が「日本がおわってんじゃなくて「お前」がおわってんだよwww」とツイートした。
安月給なのは自分の努力・能力が足りないせいだから、文句を言うなと言いたいらしい。さらに追い討ちをかけるように自ら動画に出演し、ツイ主のような考え方は「いい子ちゃん」「親とか先生がいってることを鵜呑みにして非常に保守的」と批判した。堀江氏は、情報が民主化されたネット時代に生き方を最適化できなかった人間とツイ主を罵倒し、動画投稿などを使えば「今や14万円手取りで稼ごうと思ったらすごい簡単です」とも言っている。
経済的成功者に、貧困問題を語らせると、たいていこういう結末になる。彼らが異口同音に言うのは「努力せよ。さすれば、貧困は解決せん」というシンプルなご託宣だ。
こういう言葉の背景には、自分は努力して「成功した」のだから、他の人も同じように努力すれば成功できる、成功していないのは、その人の努力が足りないせいだ、というロジックがあるらしい。
だが、こういうロジックは、根本的に間違っていると思う。まず、努力すれば、たしかに、当該の人の給料が上がるかもしれない。競争力が増し、他人に勝って、よりよい地位を得て給料も増すからだ。しかし、その人が競争に勝つということは、逆に言えば、あらたに「競争に負ける」人も生み出すことでもある。
たとえば、冒頭のツイートをした人の給料が、懸命に努力をしたおかげで給料14万円から20万円になったとしたら、その人との競争に負けた誰かは20万円から14万円に下がるだろう。そうしたら、その人は、また「自分の給与がたった14万円。日本終わってますよね?」とツイートする羽目になる。これでは元の木阿弥で、何の解決にもならない。
このようなことにならないためには、何が必要なのか? 競争の結果として効率が向上し経済全体も成長し、競争に負けた人も、その恩恵を受けて給料が上がる、ないし、現状維持できるという状況だろう。しかし残念ながら、日本では、ここ2〜30年程、そのような経済成長は起こっていない。むしろ、ここ数年は賃金が下がり続けている。だとしたら、誰かが努力して給料を上げたとしても、社会全体としてみれば、他の誰かの給料が下がるに決まっているのである。
成長がない状態では、誰かの経済的成功は、必然的に他の者の経済的失敗、ひいては貧困をも生み出す。だから、逆説的なようだが、経済的成功者に経済を語らせてはいけないのである。彼らは「努力すれば貧困から逃れられる」と繰り返す。それは、言われた当人を発憤させて、目先の問題を解決させるかもしれない。しかし、それは別な人に貧困を転嫁するだけであり、社会全体としては何の解決にもなっていないのである。
成功者たちが、いつも同じことを言うのは、彼らの生き方が「競争に勝つ」という一点に集中し、そこで生み出された敗者を忘れてしまうことで、自分の人生を成り立たせてきたからだろう。もちろん、競争は一回ではない。家庭で、学校で、職場で何度も続く。それをひとつひとつ勝ち抜いて、やっと「成功者」になれる。一回成功しても、そこで終わりではない。成功した者同士の中で、また競争が始まり、そこで次の勝者が決まる。
成功者たちは、これを何度も繰り返してもへこたれず、また次の競争に挑んで、次々に勝者になっていくようなタフな人間なのである。もちろん、前の競争のことはさっさと忘れて、次の競争に集中しないと、次の勝負に立ち向かう気力が削がれて全身全霊で当たれない。当然、途中で敗者になった人間のことなど、気にかける余裕などない。彼らのタフさは、そういう鈍感さと裏表なのである。
彼らは「敗れた者は、さっさと市場から去れ!」と叫ぶ。ならば、生み出された敗者は、市場から去ってどこに行けばいいのか? もう日本には居場所はないだろう。グローバル化で世界がすべて市場になっているのなら、そこにもいられないだろう。実質的には「競争に負けた奴は死ね!」と言っているのである。
そういえば、実際に部下に「仕事が出来ないのなら、ここから飛び降りて死ね!」と叫んだ経営者がいたらしい。だが、事業家の生き方としては正解かもしれないが、こういう態度で、貧困や経済全体について発言するのは、ちょっと無責任すぎやしないだろうか?
こういう人々は、社会全体に責任を感じていない。「市場」で生きる能力のない人たちが、どこに行ったら生きていけるか、まで考えてはいない。きっと、どこかの誰かがケアしてくれるだろう、面倒を見てくれるだろう、と他人に下駄を預けているか、いっそのこと邪魔だから、消えてなくなって欲しいと願っているだけなのである。
こういう「生き残る価値のある奴だけ生き残れ!」という「スパルタ式」人生観に共感する人は少なくない。「甘えたことを言うな! 人生は厳しい!」と胸を張るのだが、見方を変えれば、自分が引き起こした事態のケツ持ちを放棄しているのだから、無責任きわまりない。
自分が原因となって犠牲が発生したのに、それに配慮するのは自分ではなく、他の誰かなのである。甘えているのは、いったいどっちの方なのだろう? こういう「成功者」たちは、敗者も引き受けてくれる社会に甘えて、ただ乗りして自己利益を得る、たんなるフリーライダーなのである。
自分が原因となって出てきた「ゴミ」は、社会のどこかで処理しなければならないので、他の人にむやみと押しつけるわけにはいかない。こういうシステムを、経済学では「クローズドシステム」つまり
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