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サントリー鳥井信吾氏、小林一三氏から学ぶ

アイデアと創意工夫、そして逃げずに実行。私どもの会社で言えば「やってみなはれ」

諏訪和仁 朝日新聞記者

小林一三氏と鳥井家

 この本、「小林一三(いちぞう)翁の追想」は、中学生か高校生のころ、何げなく手にしました。「読んだ」と言っても、毎年気に入った頁をくりかえし読むということを数十年くりかえしてきた訳です。通しで読んだことはありませんでした。

 今回、この本を取り上げるにあたり、通しで読みましたが、あらためて感銘を受けました。しかし以下に引用する部分は新しい発見ではなく、やはり昔からくりかえし読んできた部分です。

拡大鳥井信吾サントリーホールディングス副会長

鳥井信吾(とりい・しんご) サントリーホールディングス副会長
1953年1月、大阪生まれ、75年甲南大学理学部卒、79年南カリフォルニア大学大学院修了(微生物遺伝学)。
伊藤忠商事をへて、83年サントリー(現サントリーホールディングス)に入り、大阪工場長、取締役生産第1部長、専務取締役・SCM本部長、副社長(生産研究部門担当)を歴任し、2014年から副会長。ウイスキーのブレンドの責任者である「マスター・ブレンダー」も兼ねる。社業のほか、サントリー文化財団理事長や大阪商工会議所副会頭、大阪大学経営協議会委員、国の文化審議会の委員なども務める。

 その中身に入る前に、私と小林一三氏との関係を話しましょう。

 小林一三氏は、大正から昭和にかけて阪急電鉄、阪急百貨店、宝塚歌劇団、東宝など数多くの事業を始めた経営者です。

 私の父、道夫(サントリー名誉会長、故人)には、鳥井吉太郎という兄がいて、その吉太郎の夫人、春子さんが小林氏の次女。ですから、春子さんは私の伯母にあたります。

 この縁で、私の両親の結婚の媒酌人は、小林一三ご夫妻でした。そういう関係ですから、父と母はお正月やお盆、いろんな節目で大阪府池田市の小林氏の家に行っていました。私は家の玄関の様子は覚えていますが、小林氏に会ったことは覚えていません。

拡大小林一三氏=大阪府池田市の自宅

 小林一三氏は1957年(昭和32年)1月25日の夜、急性心臓性喘息で亡くなります。私は4歳でした。

 夜中、家に電話がかかってきて、小林氏が亡くなったと連絡がありました。その夜の光景は鮮烈に覚えています。

 両親の態度、言葉、ただならぬ雰囲気でした。急に亡くなったので、よほどびっくりしたのでしょう。両親からすれば、小林一三氏は結婚の媒酌人であるだけでなく、日本を代表する実業家のひとりとして大変有名な人でしたから、その人を突然失った衝撃は大きかったのだと思います。

 その4年後の1961年に出たのがこの「小林一三翁の追想」です。

 付き合いが深かった経済人や政治家、小林一三氏のもとで働いた阪急グループの幹部たち、宝塚歌劇団の団員、親族らが思い出をつづったものです。市販された本ではなく、関係者にのみ配られた本です。その追想録を引用しながら「小林一三の世界」を見たいと思います。


筆者

諏訪和仁

諏訪和仁(すわ・かずひと) 朝日新聞記者

1972年生まれ。1995年に朝日新聞社入社、東京経済部、大阪経済部などを経験。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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