アイデアと創意工夫、そして逃げずに実行。私どもの会社で言えば「やってみなはれ」
2019年11月12日
この本、「小林一三(いちぞう)翁の追想」は、中学生か高校生のころ、何げなく手にしました。「読んだ」と言っても、毎年気に入った頁をくりかえし読むということを数十年くりかえしてきた訳です。通しで読んだことはありませんでした。
今回、この本を取り上げるにあたり、通しで読みましたが、あらためて感銘を受けました。しかし以下に引用する部分は新しい発見ではなく、やはり昔からくりかえし読んできた部分です。
鳥井信吾(とりい・しんご) サントリーホールディングス副会長
1953年1月、大阪生まれ、75年甲南大学理学部卒、79年南カリフォルニア大学大学院修了(微生物遺伝学)。
伊藤忠商事をへて、83年サントリー(現サントリーホールディングス)に入り、大阪工場長、取締役生産第1部長、専務取締役・SCM本部長、副社長(生産研究部門担当)を歴任し、2014年から副会長。ウイスキーのブレンドの責任者である「マスター・ブレンダー」も兼ねる。社業のほか、サントリー文化財団理事長や大阪商工会議所副会頭、大阪大学経営協議会委員、国の文化審議会の委員なども務める。
その中身に入る前に、私と小林一三氏との関係を話しましょう。
小林一三氏は、大正から昭和にかけて阪急電鉄、阪急百貨店、宝塚歌劇団、東宝など数多くの事業を始めた経営者です。
私の父、道夫(サントリー名誉会長、故人)には、鳥井吉太郎という兄がいて、その吉太郎の夫人、春子さんが小林氏の次女。ですから、春子さんは私の伯母にあたります。
この縁で、私の両親の結婚の媒酌人は、小林一三ご夫妻でした。そういう関係ですから、父と母はお正月やお盆、いろんな節目で大阪府池田市の小林氏の家に行っていました。私は家の玄関の様子は覚えていますが、小林氏に会ったことは覚えていません。
小林一三氏は1957年(昭和32年)1月25日の夜、急性心臓性喘息で亡くなります。私は4歳でした。
夜中、家に電話がかかってきて、小林氏が亡くなったと連絡がありました。その夜の光景は鮮烈に覚えています。
両親の態度、言葉、ただならぬ雰囲気でした。急に亡くなったので、よほどびっくりしたのでしょう。両親からすれば、小林一三氏は結婚の媒酌人であるだけでなく、日本を代表する実業家のひとりとして大変有名な人でしたから、その人を突然失った衝撃は大きかったのだと思います。
その4年後の1961年に出たのがこの「小林一三翁の追想」です。
付き合いが深かった経済人や政治家、小林一三氏のもとで働いた阪急グループの幹部たち、宝塚歌劇団の団員、親族らが思い出をつづったものです。市販された本ではなく、関係者にのみ配られた本です。その追想録を引用しながら「小林一三の世界」を見たいと思います。
この本で初めに読んだのは、東京テアトル会長の吉岡重三郎氏の「二階A列零番席」という文章。長くなりますが、引用します。
幕があくまで客席を、幕が昇ると舞台を、翁(小林一三氏のこと)は熱心にご覧になる。作者の名、出演生徒の名等、質問があれば一々お答えする。質問が切れ、静かな気配に、フト気がつくと、音楽を楽しみながら、ウツウツと半睡の御様子(中略)しかしそれも極く短かい何分かで、直ぐ御目覚め、又、質問が続く。
小林翁が歌劇をご覧になるのは、初日は勿論、平日でも度々来られる。宝塚歌劇を愛し育てる事が天命の様に見える其の御熱意には、誰もが圧倒される。
特に宝塚歌劇は小林翁が熱愛せられ、その草創より御逝去まで四十数年間、眼に入っても痛くない可憐な数百の生徒のために、夜も日も其の成長のために心を使われた事業であり……
四十数年、側近を勤めた私にとって、翁らしい御様子を見受けるようになったのは、恐らく御逝去前四-五年の事で、それまでは常に元気で潑剌と若い者も及ばぬ程の日常であった。
小林翁は何か事業を始める時は、必ず綿密な基礎調査をせられ、これなら大丈夫と見極めを付けなければ決して発足せられぬ。電車、百貨店、劇場、みな然り。而してこれならよしと極まると、電光石火、グングンと其の事業に打ち込まれる。其の事業もすべて小林翁の創意によるもので、決して前人のあとを追わない。世間は小林翁のこの各界に於ける成功を見て、奇才縦横と拍手する。がしかし、事前に於ける非常な努力と万全の調査を見のがしている。真に「小心胆大」の尊いモデルである。
鉄道、電力という非常に硬いインフラ事業を手がけながら、デパートやレストランを作りました。それどころか、宝塚歌劇を始め、映画会社の東宝を起し、帝国劇場をやって、エンターテイメント事業を幅広くやっています。
まったく性質が異なる両方の分野にまたがって事業を展開しますが、両方に共通しているのは、大衆のために、大衆に向けた事業ということです。
インフラとソフト・エンターテイメントという全く異なる事業の両方をやれたのは明治、大正、昭和という日本の資本主義の黎明期、都市が勃興する経済大発展の時期だったからと思われるかもしれません。
確かにそうも言えるのですが、かたく固定されたインフラの世界にソフト・エンターテイメントつまり文化を吹きこむことは、現代のIT産業GAFAがやってきたことと同じではないかと思います。
スマートフォン、エレクトロニクス、コンピューターは機械にすぎない。そこに「文化」を吹きこむのは、21世紀にGAFAがやっていることで、小林一三氏はそれを100年前に日本でやったのであって、万人が参考とすべきでしょう。
その両方を手がけた小林氏の根底にある考え方は、創意工夫です。
事業のアイデアを思いついたら、それが間違えているかも知れないので、ビジネスとして成り立つのかを徹底的に調べます。事業を成功させるまでには並外れた調査をしているのです。
自ら調べたら、次に社内の若手チームに同じことを調べさせるんですね。自らと社内チームの結果が一致したら、やっとゴーサインを出すぐらいです。
初めから大ぶりにやったりはしない。小林一三氏は、阪急梅田駅で日本で初めてのターミナルデパートである阪急百貨店を始めました。これもいきなり始めたのではありません。まず、小さな建物の1階に白木屋という小売りのお店を入れ、2階は直営の食堂にして、しばらく客の入りをじーっと観察して、数年後に建て替えて本格的なデパートを出すのです。
用意周到に調査研究をして、小さくやってみて、うまくいきそうなら本格的にやるというように、創意工夫、アイデアを実行に移すためのステップを知っているのです。まさに「小心胆大」です。
サントリー創業者鳥井信治郎は「やってみなはれ。やってみなわかりまへん」と言いました。やってはじめてわかる。だから前に進める。鳥井信治郎も小林一三も、まさに小心胆大の精神です。
創意工夫の実現を妨げるのは、行き過ぎた規制です。
自由主義経済を支えるのは、アイデアや創意工夫であることはアダム・スミス以来の資本主義の精神です。規制がまったくいらない訳ではありません。
しかし小林氏は「規制がアイデアや前向きの事業をつぶすことがあってはならない」という考えを終生貫いています。アイデアや創意工夫を大事にした徹底した自由主義者でもありました。
そんな小林一三氏は政治家に請われて、戦前に商工大臣、戦後直ぐに国務大臣戦災復興院総裁を務めますが、大失敗だったと振り返っています。法律や規制をつかさどる政治や役所とは意見が合わなかったのでしょうね。
いくら小林氏でも事業を成功させるには、一人ではできません。人々の力を借りなければならないのです。
となると、人を見る目が大事です。この点について、おもしろいエピソードがこの本にあります。
小林氏はお茶をたしなんでいましたから、茶器や掛け軸などを紹介してくれる美術商が出入りしていました。本の中で瀬津伊之助という美術商が「お客に儲けさせる商法(逸翁のお言葉)」を書いています。
よく初めの頃、(小林一三氏は)『商売というものは、水の流れるように早く、安く、お客に儲けさせるようにしなければいけない。』こんなことをおっしゃっていました。随分、慾の深いことを言われるものだ、これは仲々難しいことだ、と思っていましたが、あの方のなさったこと自体がそのやり方で、真にご経験から自然に出た言葉だったのです。
このあたりは小林氏の哲学とも言える考え方だと思います。
商売とは、まずはお客さんにもうけさせないと、自分ももうけられないという意味。簡単なようで、実行するのは難しい言葉です。
私たちサントリーが手がけているウイスキーやビール、ワインのビジネスでも、本当にお客さんのためになる商品を届けないと、一時はもうかっても、いずれだめになります。まさに商売のキーになることを言っていると思います。
小林一三氏「君は正直だ」
美術商「とんでもないことです」
小林一三氏「いや、僕が見たら分かるよ」
美術商「私は正直ではありませんが、正直でなければならぬようにお仕向け下すったからでしょう」
短いやりとりですが、これもなかなか含蓄があるやりとりだと思います。
人間が本当に正直になれるかと言えば、難しいですよね。美術商という仕事は、仕入れ値に対して一定の利益を上乗せしますが、時によって値段を変えることもあるでしょう。それに対して、先ほどの言葉とこのやりとりです。
「正直」を「誠実さ」と言ってもその内容は、家族、友人、会社と、相手によってもその度合いが変わるでしょう。単なる組織上の上下関係だけで人間関係を規定しても、人は本来の誠実さを出すことはできない。小林氏は、正直な人を選ぶか、正直にさせるように仕向けたというのです。
これは大事なことです。事業を始めるにあたって成り立つのかどうか、事前に調べますが、調査を頼んだ人たちが正直に答えなければ、どんな事業でも判断を誤って失敗してしまいます。正直さを求めたこと。これが、小林氏が成功した本当の原因だと私は思います。
高崎達之助氏は、日本最大の製缶メーカー、東洋製缶の創業者で、小林一三氏の盟友のような人です。戦後は通商産業大臣(現経済産業相)や、日ソ漁業交渉の日本代表を務めました。
国交正常化する前の中国との貿易は「LT貿易」と呼ばれましたが、Lは、中国共産党の政治局員の廖承志(りょうしょうし)、Tは高崎です。その高崎氏は次のように書いています。
大正の初め、大阪での疑獄事件であった北浜銀行不正貸出の張本人岩下清周さんが、富士の裾野の隠遁地から大阪へ、初めて訪問された時に、当時の大阪財界人がこぞって大歓迎した。蓋し岩下さんは当時の大阪財界の大親分で、岩下さんの厄介にならなかった財界人は殆どなく、小林さんも電鉄会社創立に就いて、岩下さんの御厄介になった一人である。小林さんは先輩岩下さんを目の前に置いて、
「岩下さんは実に偉い人である。我々は非常に御厄介になった。特に私自身は三井銀行を飛び出して、箕面電鉄(阪急の前身)を創立出来た事は、一に岩下さんのお力の賜ものと感謝している。その尊敬する先輩岩下さんが、もし政治界に身を投ぜられていたならば、恐らく明治の元勲にまさる政治家となったであろうが、不幸にして実業界に身を投ぜられた為に今日富士の裾野に隠退されなければならぬ運命に追込まれたのである。思うに岩下さんのお人柄は偉大であって常に清濁あわせ呑む人柄であった。それは政治家としては満点であろうが、実業家であって、清濁合せ呑む親分の下には、濁だけが残って、清は去るのである。最後の北浜銀行は濁々合せ呑まれた感がしたのは、岩下さんの為に最も遺憾であった。さりながら此の事は我等実業界にある同僚の為に、岩下さんは身を以て教訓された事を感謝する」との挨拶であった。
政治は「実業」と違って「調整」です。社会での資源配分もそうだし、不満を抱く人たちの気持ちをくみ取ることも重要です。
それに対して、実業界は、人々の役に立つものを作って、その事業を長く続けることが大切で、利害の調整ということではありません。
高崎氏は小林氏が亡くなる1カ月ほど前、昭和31年12月28日に、新宿コマ劇場のこけら落としで小林氏と同席し、最後の会話をした。小林氏はこう自分に話したと書いています。
コマ劇場を始めてみて、しみじみ感じた事は、これからの事業は、事業に寄生せんとするやからを取除き、事業を盛り立てて行こうという人を、仕事の中心に据えなければならない。否、寧ろ、事業を生命とする人の仕事になるように導いて行く事が、事業を成功させる唯一の途である。
「事業を生命とする人の仕事に導いていくことが大切だ」
それが事業を成功させる唯一の道だと言っている。
「事業を生命とする」。これは最も難しいことですが、小林一三氏の企業家精神の根幹だと思います。
商売に厳しいので、怒りの人、冷たい人だとも思われていました。
小林氏は慶応義塾で学びましたから、福沢諭吉をものすごく尊敬していました。福沢諭吉が創刊した時事新報という新聞があり、経営が厳しくなると、財界人はこぞって「福沢先生の時事新報だから、援助しよう」と言いますが、小林氏は言下に拒みます。
新聞事業は、うまくいくわけがない、やめようと言った。財界人たちからは「小林氏は福沢先生にお世話になり、私淑しているのに、冷たいやつだ」と非難ごうごうだったそうです。
しかし、小林氏の言う通り時事新報は結局やめることになります。小林氏はビジネスに対して合理主義だったんですね。情にも流されない。それはやっぱり厳しいことですよね。
岩下清周の北浜銀行の事件では、小林氏も捕まります。そのときのことを「独立独歩」というエッセーに書いていて、「無罪放免になってから、弁護士に話を聞き、公判記録を全部読むと、いかに人は自分のことしか考えないか、自分が得するようにしか動かないかということを思い知った。助けてもらったらだめだと、自分でやるしかない」ということを30代のときに悟った。そこに端を発して、だれの助けにもならない、だれのお世話にもならない、自分の創意工夫で、独立独歩でビジネスをやることを人生の指針にしたと小林氏本人が書いています。
小林一三氏は、山梨県韮山の素封家の出身で、東京に出た若い頃は遊び人だったようです。
慶応義塾を出て、三井銀行に入り、大阪支店に配属になりました。当時の大阪のキタ、ミナミは夜になると、舞妓さん、芸妓さんのおしろいや香水の香りが漂うような街でした。小林氏は青年実業家としての仕事もしましたが、夜の街で遊んだり、芝居を見たり、小説を書いてみたりと、いわゆるビジネスマンとはかけ離れた暮らしをしていました。
それが、北浜銀行の事件で捕まり、いかに人間が信用できないかを悟ったと言う。そのことが独立独歩の実業家として目覚めたのだと小林氏自身が独白しているのです。
宝塚歌劇の生徒とのやりとりでも、感銘を受けた文章があります。葦原邦子さんという男役のスターがこの追想録にこんなことを書いています。
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