安倍首相の「双方にとってウィンウィンとなる協定」を独自試算で否定する!
2019年11月22日
「もっと自動車の関税引き下げをとらせろ」
日米貿易交渉が佳境を迎えた8月、吉川貴盛農水相(当時)は、農水省の交渉担当者にげきを飛ばした。
トランプ大統領の公約通り米国が環太平洋経済連携協定(TPP)から離脱して、日本に求めてきた二国間交渉。当初は農家に「TPPを上回る関税引き下げをのまされる」との懸念が広がったが、この頃までに、関税引き下げはおおむねTPPと同じかそれ以下にとどめる内容で固まっていた。
農水省からすれば「御の字」だ。にも関わらず、吉川氏が危機感をあらわにしたのには訳がある。
日本にとって農業が「守り」の交渉ならば、「攻め」の交渉になるのが自動車関連。その自動車関連で、「TPP協定でも『取った』と言い切れなかった関税撤廃が、全くとれなくなる交渉結果」(交渉関係者)になっていたからだ。
議論を整理してみよう。
TPPでは自動車部品の関税(主に2.5%)こそ大部分の品目で即時撤廃の約束をとりつけたが、肝心な乗用車の関税(2.5%)の段階的な引き下げが始まるのは15年目。撤廃されるのは25年目だった。
「こんなに先だと、その間に事情が変わって、再交渉で約束が反故にされるのが目に見えていた」(交渉関係者)
だが、10月に署名された日米貿易協定では、自動車関税の撤廃は風前の灯火になった。乗用車も自動車部品も、米国側の協定の付属書には「関税撤廃に関してさらに交渉する」としか書き込まれなかった。撤廃時期は触れていない。
「『農産品は譲りすぎだ』との批判がわき起こるのは目に見えている」
吉川氏ら農水省幹部は、こんな心配に包まれた。
日本政府の説明は、全く違った。交渉トップを務めた茂木敏充外相は「関税撤廃は協定に明記されている」と繰り返し発言してきた。
協定では「付属書の規定に従って、市場アクセスを改善する」とも書かれている。付属書の「関税撤廃に関してさらに交渉する」と合わせて読めば、関税を撤廃することは約束されている、という理屈だ。
しかし、関税撤廃が単なる交渉事項ならば、実施されなくても、「規定に従った市場アクセスの改善」をサボタージュしたとは言えないはずだ。
交渉に直接携わっていないある中央省庁幹部に聞いてみた。答えはこうだった。
「典型的な合意できない場合の外交文書の書き方ですよ。両国が違う説明ができる玉虫色の文言で合意したふりをするが、その文言では相手を拘束できず、意味をなさない」
私は、高尚な文言の解釈は意味がないと思っている。米国の関税決定は米国の国家主権だ。自動車関税を引き下げる権限が日本政府にない以上、日本政府がどう説明するかは関係ない。
本質は、米政府がこの条文を「自動車関税撤廃を約束した」と認識しているかに尽きる。ところが、米国は、協定の説明でこの点に触れていないのだ。
米通商代表部(USTR)のライトハイザー代表は9月下旬の協定の最終合意直後、記者団に「(協定に)乗用車や自動車部品は含めなかった」と話した。その後も、「米国は関税撤廃をする約束をした」と言っていない。
こんな状況でもし米国政府が「協定に書いてあるとおり自動車関税を撤廃する」と言い出したら、米国民は「聞いていない」と反発するのは必至だ。そもそもトランプ政権がいつまで続くとも限らない。口頭でどんなやりとりがあったかはわからないが、文書で明記されていないことを、未来の大統領が「約束」と認識し、履行すると考えるのはかなり無理があると思う。
政府の様々な試算はみな、自動車関税の撤廃が実現したことを織り込んで計算している。
例えば、日米両国の関税削減額だ。
日本が米国に輸出する際の削減額 2128億円
米国が日本に輸出する際の削減額 1030億円
これをもとに、内閣官房の渋谷和久・政策調整統括官は、「倍ぐらいの(日本の)勝ち越しだ」と説明する。安倍晋三首相も「双方にとってウィンウィンとなる協定となった」と成果を強調してきた。
野党は国会審議で「自動車関税撤廃は約束されていない」として、自動車を除く関税削減額の公表を求めてきたが、政府は拒み続けてきた。理屈は「撤廃することになっているので交渉結果に反する」。11月19日に衆院で協定の承認案を可決し、参院審議が始まった。
日本は戦後、自由貿易を進めるブレトン=ウッズ体制のもとで成長してきた。私は相互に関税を引き下げる貿易協定は、大いに進めるべきだと考える。ただ、政府が不都合なデータを国民に隠したまま、国会が承認するのは、正しい政策決定のプロセスとは言えないのではないか――。
そう考えて朝日新聞は独自に、自動車関税撤廃が実現しなかった場合の関税削減額を試算した。正確性を担保するため、三菱UFJリサーチ&コンサルティングの中田一良・主任研究員の助言を受けた。
当初は、日本が米国に輸出する際の関税削減額2128億円から、自動車関連品目の削減分を除いて計算する方法を考えた。自動車以外をすべて集計するよりも手間がかからないと考えたからだ。
ところが行き詰まった。政府は、そもそも何を「自動車関連」と定義して、試算に含めたのかすら開示を拒否しているからだ。自動車関連品目がどれかを明らかにしてしまうと、将来の交渉で手の内をさらすことになるという理屈だ。
しかし、過去のTPPや欧州連合との経済連携協定(EPA)などで、自動車部品の交渉は決着済みだ。政府はこの定義に従って粛々と示せばいい。そもそも、試算の自動車部品の対象と、今後の交渉の対象が一致しなければいけない理由も良くわからない。
そこで方法を切り替えた。自動車関連以外の品目を丹念に積み上げる手法だ。
米国国勢調査局は、貿易データベースで品目ごとの各国からの輸入の関税推計額を公表している。一方で、米国は協定付属書で「関税引き下げリスト」を掲げている。全241品目。自動車関連品目は含まれていない。
まずこの241品目すべてについて、日本政府が試算対象とした2018年の日本からの輸出の関税推計額を抽出した。
次に、付属書のリストに書かれた関税引き上げ内容に従って、削減額を計算した。241品目の関税引き下げは、即時から10年目までとまちまちだが、いずれも「撤廃」か「半減」のどちらか。撤廃なら関税推定額の全額、半減なら半額にすれば計算できる。
例えば、カメラのレンズとその部品の関税推計額は909万ドル(約10億円)。これは撤廃されるため、削減額は全額になる。一方、音楽用キーボードの関税推定額は52万ドル(約5800万円)だが、税率は半減なため、2分の1をかけた。
こうして241品目を足し合わせて弾き出した関税削減額は衝撃的だった。
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