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経済安全保障が弱すぎる日本(上)

イランや北朝鮮で注目される経済制裁。まずはその歴史を振り返ろう

荒井寿光 知財評論家、元特許庁長官

 世界的に経済安全保障に関する動きが強まっている。

 日本では2020年4月から、内閣の国家安全保障局(NSS)に経済安全保障を担当する「経済班」が設置されることとなった。

 経済安全保障に関する歴史的な流れと、米中間の経済安全保障を巡る争い、日本の課題について概観するとともに、今後の日本の政策について提言することとしたい。

第1部 経済安全保障の概要

1 経済安全保障(経済制裁)は約200年の歴史

(1)18世紀以前、国家間の争いは軍事戦争で処理されることが普通だった。それが1760年の産業革命により、国家間の貿易が発達するとともに、経済制裁により相手国に打撃を与えることが可能となり、経済制裁が使われるようになった。

 典型的な事例は、19世紀初頭、フランスのナポレオンがイギリスに侵攻しようとした時に、トラファルガー海戦(1805年)で阻まれたため、フランスと同盟国はイギリス商品を大陸から締め出し、イギリスへの食糧を輸出することを禁止した(大陸封鎖令)。

(2)第1次大戦後に設立された国際連盟では、紛争を解決する手段としての戦争が否定され、一方的な軍事行動に対しては経済制裁を中心に圧力をかけることが定められた(国際連盟規約第16条)。この規約に基づき、イタリアが1934年エチオピアに侵攻したことに対し、経済制裁が行われた。

(3)1937年、盧溝橋事件が勃発し、日中間が全面戦争に入ると、1938年には国際連盟加盟国による対日経済制裁が開始された。米国は国際連盟に加盟していなかったが、1937年にルーズベルト大統領による日本・ドイツ・イタリアを念頭においた「隔離演説」で経済的圧力の行使が提案され、米国は日米通商航海条約を破棄し、日本向けの工作機械、鉄、石油製品などを順次、輸出を制限・禁止した(1940年当時、日本は石油輸入の77%、鉄類輸入の70%を米国に依存していた)。

 この貿易制限は 米国(America)、イギリス(Britain)、中華民国(China)、オランダ(Dutch)によるABCD包囲網に拡大した。日本はこのままでは、外国からの石油や鉄の輸入が止まり、経済力も軍事力も破滅すると考え、1941年真珠湾攻撃を行った。

(4)第2次大戦後に設立された国際連合は、国際連盟と異なり、武力制裁も制度化し、経済制裁と武力制裁を組み合わせた圧力で集団安全保障を機能させようとした。

 しかし、国連の経済制裁を機能させるためには、常任理事国の反対(拒否権発動)がないことが必要であり、冷戦期は東西陣営に分かれていたため、経済制裁が実現しないことが多かった。

 その代わり、東西陣営・地域機構ごとの制裁がしばしば行われた(コミンフォルムの対ユーゴスラヴィア制裁、米州機構による対キューバ制裁。第4次中東戦争の時は、アラブ石油輸出国機構が親イスラエル国家(日米欧など)に対する石油の輸出制限)。

 このように経済制裁は、国連によるもの、多国間によるもの、一国によるものと3種類ある。

2 安全保障の色々

(1)安全保障の目的と手段

 安全保障は、①国の領土・領海・領空を守ること、②国民の生命・健康・財産を守ること、③国家の主権を守ることが目的だ。

 安全保障の手段は、①軍事安全保障(軍事力による防衛)と、②非軍事安全保障(経済安全保障)に分類される。

 このため通常の軍事力による「戦争」に対し、経済安全保障に関するものは「経済戦争」と呼ばれる。

(2)米国は経済安全保障を軍事と同等に重視

 米国は20世紀に入り、世界一の経済大国、技術大国になり、軍事力とともに経済制裁を行使することが多い。

 1993年に、クリントン大統領が、「軍事安全保障」と並んで、「経済安全保障」が重要と考え、「国家安全保障会議(NSC、National Security Council)」と同格の「国家経済会議(NEC,National Economic Council)」を大統領直属の機関として設置し、経済安全保障の司令塔として機能させている。

(注)大統領経済諮問委員会(CEA、Council of Economic Advisers)は、米国合衆国大統領に経済政策に関する助言を目的とした経済学者の集まりであり、「国家経済会議(NEC)」とは異なる。

(3)経済安全保障の手段による分類

 経済安全保障に関する手段は、経済や技術の発展とともに多様化し、モノ、ヒト、カネ、技術など幅広い分野に広がっている。

①輸出制限(エネルギー、食糧、ハイテク製品など)
②輸入制限(輸入禁止、数量制限、関税の引上げの他、特恵関税もある)
③技術取引制限
④投資(投資制限、収用の他、特定国の優遇もある)
⑤金融制限(銀行の取引制限、資産凍結)
⑥税制(懲罰的な追加税の他、優遇もある)
⑦人的交流制限(VISA発給制限)
⑧不買運動、渡航の制限や自粛
⑨海域や港湾の封鎖、臨検
⑩対外援助

(4)経済安全保障の対象による分類

 対象となる経済分野により、次のような名称が使われる。

①エネルギー安全保障
②食糧安全保障 (食料自給論のベース)
③技術安全保障
④金融安全保障 (金融資産凍結、金融取引制限など)

(5)経済安全保障の攻めと守り

①経済安全保障の「攻め」と「守り」

 「攻め」とは、自国の国益を守るために、経済安全保障手段を行使することであり、今回の米国の対中制裁措置が典型例だ。全面的に貿易を止める「禁輸」や経済全体を分離する「デカップリング」なども、これに当たる。

 「守り」とは、他国から攻められても耐えられるように備えることであり、石油や食糧の備蓄、2019年の外為法改正による投資規制、サイバー防衛、貿易管理などが当たる。また相手国が経済措置を取った場合には、報復関税などの措置で対抗することが多い。

②アメとムチ

 自国の利益を実現する際、経済制裁措置はムチとして使われ、対外援助や特定の国を優遇する特恵関税はアメとして使われる。

Den Rise/Shutterstock.com

(6)エコノミック・ステイトクラフト (経済的国家手腕)

 米国では最近、経済安全保障の「攻め」の力に注目し、「エコノミック・ステイトクラフト(economic statecraft)」が重視されている。クラフト(craft)とは、技術や熟練を意味する言葉であり、「エコノミック・ステイトクラフト」とは、国家の戦略的な目標を達成するため軍事力ではなく、経済的手段を用いて実現する国家の政治手腕を言う。経済安全保障の「攻め」の力を積極的に使おうという考えだ。

(7)経済安全保障の効果

① 経済安全保障の効果はその時の状況により異なるが、軍事攻撃より効果が大きいこともある。

 軍事力攻撃は直接的で効果も測定しやすいが、軍事力行使のコストは高く、自国の兵士の犠牲も伴う。これに対し、経済攻撃は効果が上がるまでに時間がかかるが、人的な被害が少ない。

② 経済制裁は、経済大国が巨大な自国市場から締め出すとか、技術大国が技術の供給を止めるとか、資源大国が資源の供給を止めるものであり、大国の武器である。従って、経済・技術・資源などで相対的に弱い国は、予め経済制裁のリスクに備えておく必要がある。

 次に経済安全保障の具体例として、エネルギー安全保障、食料安全保障、共産圏の封じ込め、日米経済戦争、北朝鮮やイランに対する制裁を紹介する。

3 エネルギー安全保障・石油ショックの歴史

 日本では、経済安全保障と言えば、エネルギー安全保障を思い浮かべる人が多い。石油や天然ガス、鉱物資源は、経済活動に必須であり、経済制裁の対象に選ばれることが多い。エネルギー安全保障は多くの国の課題だ。

(1)第1次石油ショック

 1973年にイスラエルとアラブ諸国の間で第4次中東戦争が勃発した。

 これを受け石油輸出国機構(OPEC)は、原油公示価格を1バレル当たり3ドルから5ドルに引き上げることを発表した。さらにアラブ石油輸出国機構(OAPEC)諸国は、イスラエルが占領地から撤退するまでイスラエル支持国(米国、オランダなど)への石油禁輸を決定した。

 当時の日本は中東の政治に深くかかわっておらず、イスラエルを直接支援したこともなく、中立の立場であった。しかし、日米同盟により、イスラエル支援国とみなされる可能性があり、急遽三木副総理を中東に派遣して、日本の立場を説明して、イスラエル支援国家リストから外すように交渉した。

 原油価格の高騰により、日本は「石油ショック」と言われる経済混乱が生じた。これを機に、石油の中東依存率の引き下げのための供給源の多角化、石油代替エネルギー・再生エネルギーの開発、省エネルギーの推進が行われた。

(2)第2次石油ショック

 1978年1月に始まったイラン革命により、イランでの石油生産が中断したため、イランから大量の原油を購入していた日本は需給が逼迫した。

 また、1978年末にOPECが「翌1979年より原油価格を4段階に分けて計14.5%値上げする」ことを決定し、原油価格が上昇した(ただし、4段階目の値上げは総会で合意が形成できず、実際には3段階までであった)。第1次石油危機並に原油価格が高騰し、日本経済に打撃を与えた。

ramcreations/Shutterstock.com

(3)ロシアによるウクライナ向け天然ガスの停止

 ロシアはウクライナを経由して東欧から西欧にパイプラインで天然ガスを輸出している。

 2004年にウクライナで親欧米の政権が誕生したが、当時行われていたロシアとウクライナの価格交渉が決裂し、ロシアはウクライナ向けのガス供給を停止した(ロシアの親欧米政権への経済制裁との見方もあったが、真相は不明)。

 ウクライナ向けと西欧向けのガス供給は同じパイプラインラインで行われており、ウクライナ向けのガス供給を削減したが、ウクライナはガス取得を強行したため、西欧のガス取得は低下して、西欧各国は大混乱に陥った。

 後に価格交渉が妥結し、ガス供給が元に戻り、問題が収束した。

 その後もロシア・ウクライナ間のガス紛争は続き、2008年、2009年、2014年にも価格交渉がもめた。このため西欧のロシアへのガス依存のリスクが指摘されている。

4 食糧安全保障の歴史

(1)大豆ショック(1973年)と食料安全保障概念の誕生

 米国ニクソン大統領は1973年の夏に、国内のインフレを抑制するため、大豆の輸出を全面的に禁止し、トウモロコシの輸出についても統制の可能性を示唆した。

 日本では大豆は豆腐や味噌の原料で国民生活に欠かせないものであるが、1972年の大豆の国内生産は13万トンで、輸入は340万トンと国内自給率は約3%しかなく、米国からの大豆輸入に頼っているため「大豆ショック」と言われる大変な混乱が生じた。

 食糧の輸入依存のリスクが認識され、日本ではこのときから「食料安全保障」という概念が使われるようになった。

(2)ソ連のアフガン侵攻への制裁措置としての穀物輸出禁止

 1979年ソ連がアフガニスタンに侵攻すると、翌80年、当時のカーター大統領は制裁措置としてソ連への穀物の輸出を禁止した。タイム誌は「食糧は武器になった」と報じた(1980年1月21日号)。但しソ連は他の国から穀物を輸入したため制裁効果は薄かったが、日本では輸入依存リスクが更に認識された。

(3)“食糧も武器” 中国の使用

 朝日新聞2019年12月3日「米中争覇 食糧」は、「食糧も武器」と題して、次のように報じている。

 中国は2010年、ノルウェーのノーベル賞委員会が中国の人権活動家に平和賞を授与したことに反発し、ノルウェー産のサーモンの輸入を止めた。南シナ海問題でフィリピンと対立が深まった2012年には、同国産のバナナの輸入を停止。2018年12月にカナダ当局が米国の求めに応じ、中国ファーウェイ副会長を逮捕すると、カナダ産の菜種と食肉の輸入を相次いで止めた。中国は、自国の巨大市場を背景に、「武器としての食糧輸入」を振り回している。

(4)日本の食料安全保障と食料自給率の低下

 農業基本法を引き継いだ「食料・農業・農村基本法」(1999年)は、食料安全保障(食料の安定供給の確保)を重視しており、2002年には「不測の食料安全保障マニュアル」が策定された。

 しかしながら、わが国の食料自給率(カロリーベース)は37%であり、米国130%、フランス127%、ドイツ95%、イギリス63%に比べ、先進国の中で最低の水準となっている(2018年、農林水産省「日本の食料自給率」より

 日本の食料自給率が低いことは、異常気象や天候不順、国際情勢など何らかの理由で外国からの輸入が途絶えてしまった時に、日本人の食生活が大きな影響を受けることを示している。また爆発的な世界の人口増加により、地球規模での食料不足が懸念されている。

5 東西冷戦下の共産圏封じ込め

(1)ココム

 東西冷戦は第2次世界大戦後の1945年から1989年の米ソ首脳による冷戦終結宣言まで続いた。世界は米国、西欧、日本などの資本主義経済圏とソ連、東欧などの共産主義経済圏の東西ブロックに分かれ、それぞれのブロックで経済活動が行われた。

 西側諸国はGATT(関税及び貿易に関する一般協定)のもと、自由貿易を進め、東側諸国はソ連のリードのもと、バーター貿易を行った。

 1950年、西側諸国はココム(対共産圏輸出統制委員会)を設置して、共産主義諸国への軍事技術・戦略物資の輸出規制を行った(日本は1952年加盟)。東西冷戦が終結して1991年にソ連が崩壊するとココムの意義が薄れ、1994年に解散した(兵器輸出規制協定は後身のワッセナー協約に引き継がれた)。

(2) 東芝(東芝機械)のココム違反事件

 1980年代に、東芝機械の工作機械がソ連に輸出され、潜水艦の建造に利用され、対共産圏輸出調整委員会(ココム)違反として米国から強いバッシングを受け、東芝グループ製品のボイコットや外交問題に発展し、親会社の東芝本体の会長、社長が辞任に追い込まれた。

 経済安全保障が企業の存続にかかわることが痛感された。

6 日米経済戦争

(1)日米貿易摩擦

 第2次大戦後、日本経済が「日本の奇跡」と言われる世界経済史上でも稀な復興を成し遂げ、日本産業が米国産業を脅かすようになり、激しい貿易摩擦が生じた。

 1955年に日米繊維摩擦が始まり、1972年に佐藤総理とニクソン大統領会談を経て、田中通産大臣が繊維の対米輸出自主規制を受け入れるまで続いた。日本の産業が重化学工業でも、競争力を増し、対米輸出が増加するに伴い、1970年代後半の鉄鋼製品、1980年代のカラーテレビやVTRをはじめとする電化製品・自動車)などの分野でも摩擦が生じ、対米輸出自主規制が行われた。

(2)日米ハイテク摩擦

 特に半導体やコンピュータなどのハイテク分野で、日本産業が成長すると米国はスーパー301条の適用をちらつかせ、日本製品や企業の排除が行われた。

 NECや富士通のスーパーコンピュータが締め出され、IBM産業スパイ事件で日立などの社員が逮捕された。富士通がフェアチャイルドセミコンダクターの買収を試みた際は、対米外国投資委員会(CFIUS)により、阻止された。

 航空宇宙分野では、日本独自の人工衛星開発の抑制、F-2戦闘機の共同開発の押し付けが行われた。

(3)ニクソンショック

 1971年8月15日、米国のニクソン大統領は、金とドルの交換を一時停止、10%の輸入課徴金の導入を含む、世界を揺るがす経済政策を突然発表した。

 金とドルの交換停止により、第二次世界大戦後の通貨の枠組みであったブレトン・ウッズ体制が終焉した。

 一方的な10%の輸入課徴金の導入は、GATT上も問題が大きい。

 これらの対外政策は、世界一律に適用されたが、貿易赤字で問題が生じていた日本と欧州、特に日本をねらったものと受止められた。

(4)プラザ合意

 1985年9月22日、先進5か国蔵相・中央銀行総裁会議(G5)により為替レート安定化に関する合意が発表された。会議の会場となったニューヨークのプラザホテルにちなみ、プラザ合意と言われている。

 先進国は、自由貿易を守るため、協調的なドル安路線を図ることで合意したものであるが、とりわけ、米国の対日貿易赤字が顕著だったため、実質的に円高ドル安に誘導する内容だった。

 発表翌日の9月23日の1日24時間だけで、ドル円レートは1ドル235円から約20円下落し、1年後にはドルの価値はほぼ半減し、150円台になった。

(5)日米構造協議

 プラザ合意は米国の対日貿易赤字を食い止めるため円安ドル高是正を図ったものであったが、その後も米国の対日赤字は膨らむ一方だった。

 この原因は、日本市場の閉鎖性(非関税障壁)にあるとして、主に日本の経済構造の改造と市場の開放を迫るため、米国は「日米構造協議」を要求し、1989年から1990年までの間、開催された。

 その後1993年に「日米包括経済協議」と名を変え、1994年からはじまる、「年次改革要望書」「日米経済調和対話」になった。

 これらの協議は、商習慣や流通構造などの国のあり方や文化までカバーしており、「日本株式会社」と言われたような日本の産業政策は否定された。

 現在の米中経済戦争で米国が採用している政策は、これらの日米経済戦争の時に採用した政策に似ているものが多い。

7 国際的な制裁

(1)北朝鮮に対する国連経済制裁

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