メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

自分で料理すること

消費から逃れて自由を獲得する

吉岡友治 著述家

毎日料理する習慣

 もうかれこれ40年、私はほぼ毎日のように何かしら料理を作っている。きっかけは中学生の頃の母親の病気だった。突然、腎臓を悪くして倒れ、2年近く自宅で安静療養することになったからだ。当然、家事にもドクター・ストップがかかった。

 母親は学校の教師をしていたので、それまでも、昼間は「お手伝いさん」が来て、掃除や昼食はやってくれてはいた。しかし、夜や日曜は来ないので、何とかしなくてはならない。初めは、父親が出来合いのお総菜などを買ってきて済ましていたのだが、妹たちがその味に飽きてしまったので、父親と私で何とかしようと始めたのである。

 実は、その前から、母親の作る料理は好きでなかった。働いて疲れていたせいもあろう。味は二の次で、時間がかからないもの、手抜きのものになりがちだった。たとえば、日曜の昼はいつも「うどん」と決まっていたのだが、今考えれば、出汁が十分取れていなかった。子どもながらに「何だか美味しくないな」と感じたものだった。でも、文句を言うと怒られるし、そもそも、彼女は料理に情熱を注ぐタイプではない。

料理力は男女を問わない

 むしろ父親の方が料理する素地があったかもしれない。群馬県の生まれで、故郷の味が懐かしくなったら、市場に行って材料を買って自分で料理するような人だった。だから、休みの日には、ときどき風呂場で鯉が泳いでいる。それをシメて「今日は鯉コクだ」と作ってくれる。味はもちろん当たり外れがあった。ただ、食べるものへの探求心は母親よりあったと言えよう。

 だが、それも、たまの「男の料理」だったから、楽しみになるにすぎず、毎日となると話は違ってくる。彼も教師だったので、帰宅が遅くなることも少なくなかった。見かねて、彼に代わって、私もときどき料理をするようになったのである。

「おふくろの味」などない

ポルドガルのサンタクルスの貸し別荘で料理する檀一雄氏=1972年ごろ

 母親は家にいるのだが、もちろん料理法を教えてくれるわけではない。祖母も「料理が苦手」とつねづね言っていたので、食環境もよくなかったのであろう。代々伝えられてきた「おふくろの味」なんて望むべくもない。だから、私が参考にしたのは、その頃怒濤のように発行されていた家庭雑誌や料理本であった。

 とくに重宝したのは『暮しの手帖』という雑誌だった。毎号、専門の料理人が家庭用にアレンジした料理記事が掲載されている。それに従って作ると、まあ、それなりの味になる。それだけでなく、その当時、販売され始めた様々な食品や家事用品の比較記事も豊富だったし、市販のカレー・ルーに一手間加えて、より美味しいものにする工夫なども載っていた。それを参考に、一つ一つ試していったのである。

 もちろん、初めは料理記事の読み方自体よく分からない。使われている用語がいちいち理解できないからである。「1.かつおぶしと昆布で出汁を取る」とあっても、あの硬い石みたいなかつおぶしと黒い板みたいな昆布が、どうやって汁に変化するのか分からない。そもそも出汁とは何か、どういう読み方をするのか、見当もつかない。そういうレベルだった。

 作家の檀一雄は、名著『檀流クッキング』の前書きで「汁に片栗粉でとろみを付けることを発見した喜び」について書いていたが、その気持ちはよく分かる。彼の時代は、指南書なども少なかっただけに、もっと大変だっただろう。すべてが手探りで、すべてが発見であったはずだ。

 記事をくまなく読んで、ところどころ理解は虫食い状態のまま、夕食の時間が迫るので、とにかく作ってみる。最初はだれでもそうだが、手の抜き方も分からない。材料が一つでも欠けるとパニックになる。だから、事前に店を回って、すべて用意しておく。スーパーマーケットもあったが、何でも材料がそろうという時代ではないので、「カルダモン」とか「フェンネル」とか書かれていると、いったいどんなものか、と想像を膨らませるしかない。

 振り返ればバカみたいだが、それ一つで出来上がりの味が大きく違ったら台無しになる、と思うと必死だった。うまく行ったときは、「美味しさ」という形で報われるのだから、天国と地獄の差。父親も鯉コクなんて悠長な趣味は言っていられなくなって、天ぷらだとかトンカツとか、生家で食べた家庭料理を再現しだした。揚げ物が多かったのは、たぶん育った地域の特徴であろう。そういえば、群馬県には「高崎ハム」なんてメーカーもあった。そんなこんなで、母親療養中は父親と二人で切り盛りし、回復後も、彼女の料理の手腕は別に向上しなかったので、何となく、三人の持ち回りで毎日の食事を回していた。

料理への回帰

 そのうち、大学進学でひとり暮らしを始めたら、また料理する機会がなくなった。近所の定食屋で、とりあえずの腹を満たすだけ。自分の生存を確保するためだけだったら、料理を工夫する気持ちはなくなるのかもしれない。

 また料理を作ろうという気持ちが猛然と湧いてきたのは、大学を卒業してたまたま演劇研究所に入り、そのときの仲間たちと共同生活を始めたときであった。立川の元米軍住宅、隣人はMr. アレグザンダーと言った。20畳のリビングに8畳・6畳・4畳半、そこで4〜5人が暮らした。環境だけは、ほとんど『限りなく透明に近いブルー』の世界だが、ドラッグはなし。その代わり、私は志願して食事係になり、皆から多少の食事代を集めて、毎夜の夕食を作り始めた。

 今度もまた書物が先生だった。主な教科書は前述の『壇流クッキング』。家庭料理から、ちょっと気取ったおもてなし料理まで100種近くが季節ごとに掲載されている。それを、またしらみつぶしに試していったのである。酒の肴にも興味を抱いた。どこかで「ぶりのあら煮」が美味しそうだと聞いて、魚屋に行って「あら、ありますか?」と聞いたら、「そんなものはウチにはねえよ!」と怒鳴られたり、庭が広かったので安い肉を買ってBBQしてみたり……それなりの工夫と冒険の日々がまた始まった。

なぜ男は料理しないのか?

今日もあり合わせで作ってみた
 しかし、やってみると、これほど面白い作業なのに、なぜ専門の職人を除いて、あまり男は料理しないのか? やってみると、すぐ分かった。あまりにも
・・・ログインして読む
(残り:約3836文字/本文:約6407文字)