19世紀、米大陸に苦力と黒人奴隷を供給した非情のネットワーク
2020年01月23日
明治5年(1872年)7月14日、横浜港に停泊していた英国軍艦が、深夜の海上に漂う1人の男を救助した。男は近くに停泊するペルー船マリア・ルス号から脱出してきた中国人労働者(苦力=クーリー)だった。(注:クーリーは元々インド人労働者を指す呼び名だが、中国人の肉体労働者にも苦力という漢字をあてた)
ペルー船は中国のマカオからペルーに向かう途中で、船内には230人の苦力が悲惨な状態で閉じ込められていた。
神奈川県権令(副知事)の大江卓は、外務卿・副島種臣から苦力の救助を命じられた。大江は弱冠25歳。万国公法の知識を生かし、裁判で中国人への虐待を認定して有罪判決を出し、苦力を解放した。
ペルー側は国際仲裁裁判所に裁判の無効を申し立てたが、ロシア皇帝が裁判長を務めて審理した結果、苦力の契約が奴隷契約であることを認め、申し立ては却下された。
この事件には副産物もあった。明治政府はペルー側から「芸妓・娼妓の人身売買を許可している日本に裁く権利はない」と批判された。そこで同年10月、芸娼妓解放令を出して人身売買を禁止したのである。
これがマリア・ルス号事件のてん末で、近代化と不平等条約改正を目指す明治政府が初めて直面した国際的な大事件であった。
148年前のこの事件を今になって振り返る契機になったのは、当時コロンビア商人だったニコラス・タンコ・アルメロが記した日本見聞記(スペイン語)が、昨年12月、「コロンビア商人が見た維新後の日本」(中央公論新社)として出版されたことである。
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