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記者会見を殺すな!「大本営発表」の日銀総裁会見で考える

日銀記者クラブは総裁会見の劣化に対し、もっと怒るべきだ。声をあげて抗議すべきだ

原真人 朝日新聞 編集委員

 新聞記者にとって「記者会見」は取材相手との真剣勝負の大舞台である。

 その記者会見が最近おかしくなっている。真剣勝負どころか、会見者とメディアとの「なれあいの場」だと言われても仕方ないケースが目立つのだ。

 なぜ、そんなことになってしまったのか。

wellphoto/Shutterstock.com

「記者会見の倫理」が踏みにじられている

 駆け出し記者のころ、先輩記者から言われたことがある。

 「夜討ち朝駆けでつかみとった特ダネも立派だが、記者会見で重要な言葉を引き出し、そこから生み出す特ダネのほうが、もっと価値がある」

 すぐにはその意味がわからなかったが、後年その意味するところを私なりに解釈し納得したのは、オープンな場で、かつ記録に残されるという条件のもとで、会見者に事実関係を認めさせること、事の本質が何かを突き止めるまで会見で説明させること、それが私たち記者にとってきわめて大事な作業だということだ。

 会見者は政治家だったり、企業経営者や官僚だったり、権力・権限を握っている立場の人であることが多い。そうした権力者に対してメディアがその営みを積み重ねていくことが、民主主義社会の礎を確かにするのではないかと思う。

 もちろんメディアが会見での表面的な言葉をなぞって国民に伝えるだけでは足りない。問題の所在を深く理解し、解釈し、読者や視聴者にわかりやすく伝える。そこまでいって、初めてメディアとしての役割を果たせたと言えるのではないか。

 そのためには、われわれ記者の不断の努力が必要だが、それに加えて会見する側に最低限のルールを守ってもらうことが欠かせない。会見者が記者会見に真摯に向き合い、噓は言わない、というルールを守ることが実りある記者会見の前提となる。

 残念ながら昨今、その条件が守られない記者会見が増えているように思える。会見のルールが意図的に権力者たちによってないがしろにされ、記者会見の倫理ともいうべきものが踏みにじられている。

 それにメディアの側も対抗しきれていない。それどころか抵抗しようという気概さえ見えないケースも目につく。

日銀総裁会見の「大本営発表」化

 私が定期的に出席している日本銀行の黒田東彦総裁会見も、残念ながらそんな会見のひとつに数えられる。

 2013年春に就任した黒田総裁は、アベノミクスの路線に乗って就任早々、「異次元緩和」を打ち出した。2%インフレを2年で実現するという目標を掲げ、日銀が金融市場に供給するお金の量を2倍に、買い上げる国債の量を2倍にすると発表した。

 その目標は実現できないまま、まもなく7年が経とうとしている。

 日銀が供給するお金の量は2倍どころか4倍まで膨らみ、国債の半分を日銀が保有するという驚くべき事態も招いた。日本の財政はいまや日銀が紙幣を刷って支えていると言ってもいい状態だ。

 この間、日銀はマイナス金利政策や長期金利コントロール政策という、効果が怪しい政策を次々と追加して、さらに事態を悪化させた。マイナス金利環境という状態が4年超も続き、金融機関の経営が圧迫される一方で、資産バブルをあおっている。政府の財政も、金融市場の高値相場も日銀が超緩和政策から手を引けば、成り立たなくなっている。

 日銀は引くに引けなくなってしまったのだ。

 表向きは順調であると装いながら、実は日銀の金融政策が危機や崩落のエネルギーを蓄積させている。

 そのなかで黒田総裁会見は「本当のことを言わないための会見」と化してしまった。国民をあざむき、実態を覆い隠すためだ。

日銀の金融政策決定会合後、記者会見する黒田東彦総裁=2018年7月31日、東京都中央区の日銀本店

 たとえば、異次元緩和が当初想定の「2年」の目標期限を大幅に過ぎたころから、記者会見では「短期決戦で異次元緩和を始めたのは間違っていたのではないか?」という質問が浴びせられるようになった。そのたびに黒田総裁は「まちがっていたとはまったく思っていません」「必ずや賃金・物価が上昇し、物価上昇率は2%に向けて徐々に上昇していくと思います」と何百回となく繰り返し答えてきた。

 これではまるで「作戦成功」「大勝利」という発表を繰り返した戦中の「大本営発表」と同じである。

会見時間を制限し、資料を長々と読み上げ、途中で打ち切る

 大本営とは、戦時中に天皇のもとに置かれた最高統帥部のことだ。

 太平洋戦争の戦況はここが発表していた。当初は正確に発表していたが、戦況が悪くなると戦果を水増しし、ときには大敗北の作戦があたかも成功したかのような虚偽の発表が横行した。転じて現代では、権力者による信用できない情報発信を批判するときに「大本営発表」と形容するようになった。

 黒田会見が大本営発表に近づいているのは、実態の虚飾にとどまらない。会見の時間制限や当局による記者の選別など、運営面にも及んでいる。

 最近、日銀は総裁会見の際、「総裁は次の予定が入っている」という理由で会見時間を45分間と制限している。そして長々と説明資料の読み上げを繰り返して時間を浪費し、まだ質問したいと手を挙げている記者がいても、時間が来たらさっさと打ち切る。

 こんなやり方は以前の総裁たちの記者会見で見られなかったことだ。

 20年以上前、当時の速水優総裁が国会から嫌がらせのように何度も参考人招致されていたころ、国会出席のために会見を早々に切り上げたことがあった。その際は記者クラブ側がむしろ速水総裁に同情的な気持ちで会見時間を切り上げた。きわめて特殊ケースだ。

 ところが黒田総裁会見では最近、45分打ち切りが常態化している。

 そもそも日銀総裁の定例会見の日程は、金融政策決定会合とともに、そのプロセスの一部として1年前から年間日程が決まっている。決定会合は時間制限などないから、紛糾すればいつ終わるかわからない。

 それに付随する記者会見も当然、開始時間が後ずれする可能性だってないわけではない。本来、総裁が「次の予定」など入れるべきではない日なのだ。

記者を露骨に選別

 質問する記者の選別もより露骨になってきている。

 日銀会見では質問者は総裁自身が指名するルールなのだが、黒田総裁はどう見ても厳しい質問をする記者、気に入らない記者を指名しない。あからさまに避けている。

 それは私自身が「指名されない記者」なのでよく分かる。

 たとえば、こんな具合だ。記者会見の終盤、最後に手を挙げている記者が3人いる。うち2人が順次、総裁から指名され、質問をする。最後に私だけが取り残され、手を挙げるのだが、総裁は指名してくれない。そのまま会見が終了する。

 そんなケースはここ数年、何度となくあった。

 少なくとも私が知る限り、黒田総裁より前の4代の日銀総裁の会見で、質問を望む記者がまだいるのに会見を打ち切った総裁はいなかった。

 これではいつまでたっても質問ができないので、私はしばしば会見を終えようとする黒田総裁に「ちょっと待ってください。もう1問だめですか」と大きな声で呼びかけることにしている。すると黒田総裁は渋々、私を指名することもある。

 ただし私の質問に対して、黒田総裁は不愉快な表情を隠さず、「今の質問はまったく意味がない」と前置きし、想定問答を繰り返してから、さっさと会見を終えるのが常だ。

 ちなみに私の質問がそれほど意味のないものとは思えない。たとえば「日本が戦後最長景気だったのに、その間に一度も引き締めなかったのでは、未来永劫、引き締めはできないということではないか?」といった類いの質問だ。

説明責任を果たさない黒田東彦日銀総裁の定例会見ではここ数年、記者席に空きが目立つ=2020年1月21日

「記者会見の充実」を公約していた総裁

 つい先日、1月21日に開かれた総裁会見でも、私は時間切れ間際に強引に割り込んで質問をした。総裁会見のあり方についての以下のような質問である。

 日銀は2016年から金融政策決定会合の開催回数をそれまでの年14回から年8回に減らしました。それに伴って総裁の定例会見の開催回数も同じように減らしています。それについて発表した2015年6月の総裁会見ではこんな質問が相次ぎました。「新日銀法は政策の透明性、情報公開の徹底を図る狙いもあったはずだが、これでは後退ではないか」と。これに対し、黒田総裁自身が「後退ではない」と否定し、こんな説明をしています。
 「説明責任という意味では一層高度なものになります」
 「あらゆる面で透明性、情報発信については充実したものになると考えています」
 「対話や情報発信が少なくなる、内容が薄くなる、ということも全くありません」
 しかし、黒田総裁は会見時間を45分と区切ったり、まだ手を挙げている記者がいても会見を打ち切ったり、実態は説明責任のあり方が後退しているのではないでしょうか。

 この質問に対し、黒田総裁は表情をこわばらせて、ひと言だけ言った。

 「そういうふうにはまったく考えておりません」

 そして会見を終え、さっさと記者会見場を後にした。

 会見する側が大本営発表を続けるなら、メディアの側はその矛盾をつき、「本当のこと」を記者会見で説明するように追い込む努力をしなければならない。

 第2次大戦前にそれができたのなら、あの悲惨な戦争を起こさずにすんだかもしれない。あるいは、戦時中に敗戦濃厚になったとき、もっと早く戦争を終えることができたかもしれない。

 今もまったく同じだ。日銀が無謀な政策の強行を続けるなら、記者会見でその実態を浮かび上がらせていくことが、日銀を牽制し軌道修正を促す力になるかもしれない。もし当局側が記者の質問を制限してもメディア側が何も抵抗しなかったなら、当局の誤ったやり方をメディアが黙認し、手助けしているのと同じである。

 日銀記者クラブは総裁会見の劣化に対し、もっと怒るべきだ。そして声をあげて総裁に抗議すべきだと思う。

 私自身も戦前のメディアと同様、総裁の大本営発表を許してきたことを大いに反省し、たいへん恥ずかしく思っている。

「望月記者外し」を許すのか

 あからさまな記者の選別や質問の制限で記者会見をコントロールし、会見を無力化させていこうという権力側の試みは、安倍政権下で想像以上に広がっている。今やけっして珍しい光景ではない。

 その権力の理不尽に立ち向かう勇敢な記者がいる。菅義偉官房長官の記者会見で毎日、厳しい質問をぶつける東京新聞社会部の望月衣塑子記者だ。

 望月記者が記者会見で何をめざし、どんな圧力を受け、どうあがいているかを本人が描いた「新聞記者」(角川新書)や、それを原案にした同名の劇映画が昨年話題になった。そして昨秋には望月記者自身が被写体になった、森達也監督によるドキュメンタリー映画「i 新聞記者ドキュメント」も公開された(論座『「i-新聞記者ドキュメント-」が問うこと』参照)。

 この映画を観ると、望月記者が質問するために、いかに事前取材を丁寧にしているか、事実にもとづいた的確な質問をしているかがわかる。そしてその質問が官邸側によって制限され、菅長官がいかにまともに答えてはいないかが、よくわかる。

 ただ、官邸側の執拗な「望月いじめ」は、裏を返せば、望月記者の質問を官邸側がどれだけ嫌がっているかの証左でもある。

 菅長官が無理な説明を押し通さざるをえないこと、厳しい質問に論理的に答えきれないことは、実は官邸側にとっても国民に不都合な事実を見せてしまうことになり、「痛い」のだろう。

 フリーランス・ライターの臺宏士氏による2月2日付の論座『望月衣塑子記者の質問外しに官房長官番記者側も加担!?』が直近の官房長官会見の状況を伝えている。

 それによると、望月記者が菅長官に最後に質問した1月22日の記者会見をきっかけに、長官を担当する番記者たちが官邸側による「望月外し」を受け入れるようになったという。ジャーナリズムにとって事態は悪化しているようだ。

 1月22日の官房長官会見の模様は、インターネットの官邸ホームページでも確認できる。こんなことがあったようだ。会見の終盤で最後の質問に、菅長官は望月以外の記者を指名した。その質問に対する菅長官の答弁が終わったとき、望月記者が声をあげた。「長官、お願いします。昨日からずっと手を挙げているんですが、私だけ指名されていない」と。

 幹事社の記者の要請で、菅長官は渋々1問だけという条件で望月記者を指名する。だが望月記者は2問の質問を求め、菅長官に拒まれると、すかさず抗議した。

 「私が手を挙げているのに指名されない会見が続いている、他の記者は最低でも1回は指名されている、私が指されるのはいつも最後、不当な扱いを受けていると感じる」

 これに対して菅長官は「ここはあなたのご要望についてお答えする場所ではありません」と一蹴した。

 この出来事のあと、菅長官は番記者たちの取材にも制限を加えたらしい。日常的におこなっていた夜回り取材を拒み始めたというのだ。

 その後、番記者たちの望月記者への対応が厳しくなった。望月記者に同情的な意見もあったようだが、結局、番記者たちは望月記者側に、長官から指名されなくても会見席から不規則発言をしないことを要請したという。

 もしこれが事実なら、内閣記者会(記者クラブ)が官邸と一緒になって望月記者を封じ込めているようなものではないか。

 論座の記事でこの状況を憂えた筆者の臺氏は、これを「メディアの敗北」と表現した。その通りである。

国会質疑にも共通する「空洞化」

 安倍政権下での記者会見の空洞化というお寒い状況は、国会質疑にも共通するものだろう。安倍晋三首相をはじめ、閣僚や官僚たちが野党の質問にまじめに、事実にもとづいて答弁しようとしているようにはどうも見えないのだ。

 最近の「桜を見る会」の疑惑、カジノなど統合型リゾート事業をめぐる汚職事件などを採り上げた国会質疑では、首相らによる論理的に破綻した答弁が続いている。

 首相主催の「桜を見る会」の首相推薦枠の名簿は、政権にとって都合よく官僚が廃棄していたことになっている。首相の講演会主催のホテルでの夕食会が政治資金収支報告書に記載されていない問題も、「契約者の主体は参加者個人」という首相の詭弁で押し通すつもりのようだ。

衆院予算委で答弁するため挙手する安倍晋三首相(中央)=2020年2月4日

 衆参予算委員会で続く質疑では、首相はのらりくらり、長々と同じ答弁を繰り返す。質問に真正面から答えず、はぐらかす。そんな答弁を繰り返しているうちに時間切れになる。そうやって時間稼ぎをしているうちに、「野党は新型肺炎のような緊急の課題について国会審議すべきなのに、いつまでも桜を見る会のような、どうでもいいことについてばかり質問している」といった批判の声が自民党議員から聞こえてくる。

 それに野党がひるんだら嵐は過ぎ去る、モリカケ問題のようにいつのまにか話題にもならなくなる――安倍政権はそう高をくくっているのではないか。

 昨今の政府や日銀の記者会見、国会審議のありようは、すべて同じ問題、同じ課題に根ざしている。いまこそメディアの根性、ジャーナリズムの強さが問われている。

 記者会見を、私たち記者自身が台無しにし、殺すようなことがあってはならない。記者会見は権力の説明責任を担保するための、民主主義に欠かせない公共財なのである。