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トラウマと野望の教育改革

試験制度の迷走が続く理由

吉岡友治 著述家

 世の中はコロナ・ウイルスでもちきりだが、季節はちょうど大学受験シーズンである。私の主宰している小論文スクールは大学院受験のサポートが多いのだが、それでも何人かが大学受験に挑む。頑張って欲しいと思う一方で、風邪を引いて体調を崩しはないか、ちゃんと試験を受けているかどうか、毎日気が気でない。

 大学受験は「第二の出生」と社会学では名付けられている。日本では、基本的にどんな大学に入るかは一生を決定する。もちろん、試験は所詮選別システムだから、結果として、うまく行く人も思うほどには行かなかった人も出てくる。前者は舞い上がるし、後者は極度に落ち込む。

文部科学省前でプラカードを掲げ、大学入試改革の中止を求める人々=2019年9月13日、東京・霞が関

 中には、そういう心理的危機に直面することを想像するだけで、足がすくんで試験会場に行けなくなる例さえある。そういう自分の弱さを認められなくて「試験制度が悪い」「教えた教師が悪い」と逆恨みする人々も出てくる。長年、大学受験塾を経営する友人など、夜中に石を投げられたこともしばしば。彼は「その内、刺されるかもね」と笑っていたが、誰でも「自己正当化」をしたいものなので、こういうリスクはどうしても出てくるのである。

トラウマ心理に基づく「改革」

 だから、試験制度に対しては皆冷静ではいられない。「教育改革」といえば聞こえは良いが、皆自分のトラウマから何とかして回復したいという動機が働く。だから「今の試験では、本当の人間性を見ることができない」「暗記ばかりで役に立たない」「子どもを歪める」などいろいろ難癖を付けるのだ。

 しかし、自分も、そういう試験をくぐり抜けて来ているわけだから、批判している自分も、すでに「役に立たない」ように「「歪められ」ているはずだが、それを棚に上げて「こういう試験にすべきだ」「ああいう方式にすべきだ」と外側に責任を押しつけて、多種多様な提案をする。毎年のように出てくる「教育改革」論議は、実はトラウマによって支えられているのである。

 今年から実施されるはずだった「共通テスト」の改革も、こういう「恨」の感情が基礎にあるから、誰も「改革」には反対しない。たとえば、英語の改革では「読む」「書く」「聞く」「話す」の四技能が大切だ、という目標が示された。これ自体には誰も反対できない。だが、反対できないことと、どう「改革」すれば、その目標に近づけるのか、という技術は別の問題なのである。

あなたは試験問題を作ったことがあるか?

 私は、日本の教育批判、とくに試験制度批判を口にする人には「そもそも、あなたは、一度でも試験問題を作ってみたことがあるのか? 」と問うてみたい。試験を受けた経験しかなければ

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