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プライドを持てる故郷に変える挑戦はエゴとの葛藤から始まった

「ワインツーリズム」発起人の笹本貴之さんの挫折とリスタート

岩崎賢一 朝日新聞社 メディアデザインセンター エディター兼プランナー

ライフシフト・笹本貴之さんインタビューでは何度も「自分のエゴ」という反省の言葉を使っていた=岩崎撮影

 山梨県出身ということが東京にいるときから恥ずかしかった。方言なんてとんでもない。高校の同級生もみんな一刻も早く山梨を出ることを考えていたし、親も「こんなところにいるもんじゃない」と言っていた――。

 こう思っていたにもかかわらず、笹本貴之さん(48)は2000年に安定していた東京での生活を捨て夫婦で甲府市に帰郷した。「東京には自分の居る地域がなかった」から始まったライフシフト。しかし、故郷の山梨県でそこに暮らす人々がプライドを持てる価値を再発見し、自信を取り戻そうとする挑戦は、苦悩の旅でもあった。

「社会を変えたい」

 現在、甲府市内で木質燃料を使うペレットストーブの販売店やシェアオフィスを運営している笹本さんは、この20年間、様々な肩書で形容されてきた。

 実家は帰郷当時、県内最大手の板金塗装工場を経営していたため、家業の「営業部長」という肩書があった。数年後、「まちづくりサロン・KOFU Pride」(甲府プライド)という任意団体を立ち上げた。「月に1回、山梨のプライドと思えるようなものを探しながら楽しむ」。同じ問題意識を持つ同年代の仲間たちと、山梨にプライドを持てるモノやコトを探す集まりのリーダー的存在だった。

 「社会を変えたいという意識は子どものころからありました。ガキ大将から児童会長になったタイプで、仲間からは『大きくなったら社会を変えてくれ』とよく言われていました」

 11月の週末、借り上げたバスで巡回バスを走らせ、県内のワイナリーをワイン愛好家たちが回る「ワインツーリズム」の発起人としても知られる。

家業の売り上げ減を補えない新規事業

 大学卒業後、アメリカのワシントンD.C.の周辺にある黒人居住区で家の改築をするボランティアをしていた。政治経済を学びに渡米したと思っていた親からすれば、人種問題への関心は想定外だった。

ライフシフト・笹本貴之さんアメリカ・ワシントンD.C.のサンドタウンで活動していたころの笹本さん。地域の子どもたちと一緒に記念撮影=提供写真

 帰国後、AIU保険会社(現AIG損害保険)に就職し、営業マンとして都内で仕事していたが、2000年に施行された地方分権一括法によって、地域主権や地方の時代ともてはやされる時代に世の中が変わってきた。「地方が盛り上がるのではないか」。こんな雰囲気と、笹本さんの気位が相まって、帰郷への背中を押した。

 「地方がもっと盛り上がると思っていました。でも、帰ってくると、同級生からは『何で帰ってきたんだ』と不思議がられました。妻の仕事も辞めさせて山梨に戻りましたので、後悔というか、やっちまったなと感じていました」

 しかし、帰郷後の現実は、前向きな気持ちとは裏腹に、逆回転を始めた。家業で始めた新規事業分野の売り上げが、本業の売り上げ減少をカバーしきれなくなってきたのだ。

 そんな笹本さんを最初に救ってくれたのは、「Kizan Winery」(キザンワイナリー)を経営する醸造家、土屋幸三さんとの出会いだった。

変革は「東京では絶対にできないこと」を探すことから始まった

――帰郷後、笹本さんは「甲府プライド」という言葉をよく口にしていました。どのような意味ですか。

 「甲府プライド」という集まりを、月に1回開いていました。私は当時、山梨にプライドを持っていなかった。みんなはどうかと尋ねると、仕事があるからいるけどほこりを持てていない人が多い現実がありました。でも、そうはいいつつ何かプライドを持てるものはあるだろうと考えました。

ライフシフト・笹本貴之さん「まちづくりサロン・KOFU Pride」の仲間たちと街を歩く=提供写真

 旧市街地を町歩きしたら甲州みそを造っている「五味醬油」を見つけました。私たちとしては「発見」でした。山梨出身の映画監督を呼んで上映会もやりました。まちづくりに関する新書の読書会も。その中の一つにワインがありました。

 私はそれまで、山梨のワインを意識して飲んだことはありませんでした。当時、甲州種ブドウを使ったスパークリングワインを造ったところがあると聞き、どんな考えで造ったのか醸造責任者に話を聞きたくなりました。

 ブドウ畑の中の細い道を抜けていくとワイナリーに至り、小さな建物の中で醸造家が今年のブドウの出来や醸造の説明をしながらグラスに試飲のワインを注いでくれました。それを飲むとき、まるでその道中に見たり聞いたり感じたりした体験が、そのまま口から自分の中に入ってくるような感動がありました。「山梨はつまらない」と思っていた自分を恥じました。

 醸造家の土屋幸三さんとの出会いは、その後の自分の行動に大きな影響を与えました。東京では絶対にできないことで「一緒に何かできないかな」と思いました。それはワインの背景を五感でじかに感じながら、そのワインを味わうことで、この価値を表現することで人々に産地に来てもらい、ワインを買ったり食を楽しんでもらったり、宿泊してもらったりすることで山梨の地域経済が持続可能なものになるのではないかと考えました。イベントではなく何か事業にできないかということです。そして、思い切って土屋さんに相談しました。

――土屋さんからはどのような答えが返ってきたのですか。

 「笹本さんが考えているようなことは、ワインツーリズムというんです」と教えてくれました。ワイナリーがある地域全体を楽しむ、食も人も楽しむ、お祭りでもイベントでもない日常を楽しむ旅のスタイルがあるんですよと教わりました。その場で「それ、一緒に事業にしませんか」と言いましたね。

「東京では自分が地域に参加している当事者意識が持てなかった」

――そもそもプライドを持てない山梨になぜ戻ったのですか。

 私の矛盾がそこにあるんです。山梨はつまらないと思って東京に出て行きましたが、東京の方がもっと嫌でした。ここ、自分のいる場所じゃないなと思いました。自分が所属する「地域」がなかったからです。自分が「地域」に参加しているという当事者意識が持てませんでした。

 会社の仲間や上司とはしょっちゅうゴルフして楽しんでいましたが、その人間関係しかありませんでした。マンション暮らしで、妻と会社の人ぐらいしか「世間」がありませんでした。夜10時、11時に帰ってきて、朝7時に家を出て行く生活です。給料は良かったし、うまいモノも食べられましたが、何か足りなさを感じていました。

 地域を動かすとか、地域に影響を与えるとか、地域に学ぶとか、会社の上司部下同僚でないところで社会との関係が欲しかったわけです。多種多様な人がいる地域で、行動し、発言し、一緒に変えていくようなことをしたかったのです。

ライフシフト・笹本貴之さんAIU時代、会社の先輩や取引先のみなさんと一緒に行ったカラオケ(上段右から2番目)=提供写真

――人間、人生の中では妥協もあります。ピュアに生きてきたようですが、嫌な山梨に帰ってきた本当の理由は何ですか。

 当時、「地方の時代」といわれていました。地方が盛り上がっていると思っていましたから「俺が帰って一発デカいことをしてみせる」という気位がありました。実家も当時は、車の板金塗装工場として県内で一番大きな会社でしたので、それを大きくしてやろうということもありました。しかし、同級生からは「何しに帰ってきたんだ」「そんな大きな会社辞めてもったいない」といわれました。全く盛り上がっていませんでした。

 妻に仕事を辞めさせて、山梨に戻りましたが、当初は後悔というか、やっちゃったなという感じはしていました。

交通事故減少で家業がピンチに

――家業での新規事業はうまくいかなかったのですか。

 最初は「営業部長」です。喫煙所の分煙機、空気清浄機、脱臭機など環境関連の新規事業を始めました。しかし、本業が右肩下がりになってくることがわかってきました。潮目は、飲酒運転に対する厳罰化で事故が減ってきたころかもしれません。自動車の安全装備も充実してきて、社会にとっては非常に良いことですが、会社にとっては意外に影響が大きかったです。

――部長として戻り、役員、社長になりましたね。また、従業員のほか、経営者として地域への責任も出てきますね。

 すごくつらかったです。都銀系のシンクタンクに何百万円も払って事業立て直しのコンサルタントを頼みましたが、落ちていく流れは変えられず、そんなときに土屋さんに出会ったのです。

 「こんなわけない」「俺は山梨を良くするために帰って来たのに」「何かしなくては」。こんなふうにもがいていました。

醸造家の金言が目を開かせてくれた

――土屋さんとの出会いが、仲間とともに「ワインツーリズム」という形になったのはどのようなプロセスからですか。

 事業にしたいという気持ちを持ちながら、大人の遊びの側面もあった「甲府プライド」の集まりが、ワインツーリズムを実現するための勉強会に事実上変わっていきました。原石にぶつかったわけです。7~8人で始めました。

――醸造家はやはりストーリーを持っているから強いですね。

 「キザンワイン」は、赤ワインブームのときも、輸入したブドウの果汁を使わず、地元のブドウだけでワインを造っていました。世の中でブームが起きても、原料の国産ブドウが急に増えるわけではありません。キザンワインは、売れればいいというようなことをしなかったという話は造り手のこだわりとして響きました。

 地元から愛され、地域から信頼され、できるだけ地元で買ってもらう――。土屋さんには「それが自分たちの求めるワインで、ワインは日常的なものとして造っている。ワインの質が上げって行けば、地域の日常が良くなってきているということでしょ」といわれました。

ライフシフト・笹本貴之さんワインツーリズムの事前ミーティング(左側が笹本さん)=提供写真

「街のキャパシティー」を超えてしまったワインツーリズム

――ワインツーリズムの事業化はうまくいったのでしょうか。

 まずは仲間の大木貴之さんが経営している「フォーハーツカフェ」で、醸造家を招いた「ワインフェス」を開きました。仲間と一緒にワイナリーを回って話を聞き、イラストと写真、地図を付けた「br」という雑誌も作りました。その後の2008年、点在するワイナリーを結ぶ巡回バスを走らせ、消費者である東京方面からのお客を地域に呼び込む「ワインツーリズム」が始まりました。あのときは面白かったですね。

ライフシフト・笹本貴之さんワイナリーで醸造家の説明を聞きながらテイスティング=提供写真

――スタートアップですね。ワイナリーを一軒一軒歩いて説得していき、信頼関係つくり、相手の考えを知り、ネットワークを地道に作っていきましたね。手間暇かかるし、いまの時代においても忘れられがちなことです。

 家業が厳しくなっている中でのビジネスチャンス、ここから脱出口を模索しながらやっていた面がありました。同時に、負の部分が大きかったのでそれを補うためでした。主催は、「ソフトツーリズム」(現在の笹本環境オフィス)という旅行業の免許を持つ会社とし、具体的な実行部隊は、地域の人たちと「ワインツーリズム実行委員会」をつくって始めました。

 最初は1800人ぐらいの参加者(有料)でしたが、数年後には4000人にまで増えました。事業として考えれば、参加者が増えることはいいことですが、私たちコアなスタッフも本業があったうえでのスタッフなので回しきれなくなる面が出てきました。そして何よりも「街のキャパシティー」を超える人が集まることが、逆にワイナリーから人があふれて待たせてしまい、巡回バスの台数も足りないという事態を招きました。

ライフシフト・笹本貴之さんワイナリーの外観=提供写真

――顧客満足度は重要ですね。しかし、当初は、やる方もくる方もとても楽しくやっていた印象があります。

 一番やっていて楽しくて意味があったのは、ワインツーリズムを開くためにワイナリーや地元の人たちと積み重ねた話し合いでした。最初は「ワインじゃなきゃだめなの?」「ワインならいいや」という地元の人がたくさんいました。ワインで有名な地域であっても、ワイン産業にかかわっていない人は「いいや」となってしまいました。恩恵をワイナリーがすべて持って行ってしまい、地域に落ちないという印象があったためです。

 それでもブドウ農家も地元の人たちにもあがってもらう舞台の名前として「ワインツーリズム」が適切だと説得しました。主役はワインやワイナリーではなく、あくまでも産地の風土や人や文化が主役で、その結果としてのワインを表現したいんだと。

ライフシフト・笹本貴之さんワインツーリズム。ブドウ畑で栽培家の説明を聞く人たち=提供写真

地域に「果実」があっても運営スタッフの「果実」が乏しい現実

――地域のコンサルティング、ブランディングを無償でやっているような感じですね。なぜ、笹本さんはワインツーリズムから外れたのでしょうか。

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