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戦後日本を仕切った政治家、宮澤喜一のこと

榊原英資 (財)インド経済研究所理事長、エコノミスト

 戦後の日本の政治家と言うと、誰でもその代表としてあげるのは吉田茂であろう。

 吉田は5次にわたって内閣を組織し、通算2616日(約7年2ヶ月)首相の座を占め続けた。8年にわたった佐藤栄作内閣、そして9年目に入った安倍晋三内閣に比べると、やや短いが、吉田茂が戦後日本の政治の基礎を作ったことは誰しも認めるところであろう。

 戦前の政治家達が追放されている中、吉田は池田勇人、佐藤栄作、岡崎勝男等の官僚達を抜擢し、いわゆる「吉田学校」をつくり、戦後政治の流れをつくっていった。吉田も、戦前は駐英大使等を務めた外務官僚だったこともあって、トップ官僚達を自らの側近としていったのだった。

 吉田学校からは、池田勇人、佐藤栄作が総理大臣に、橋本龍伍が文部大臣、厚生大臣に、前尾繁三郎が衆議院議長に、大橋武夫が労働大臣、運輸大臣になる等、多くの元官僚達が要職を占めていった。

池田勇人の側近として

 吉田学校でまず総理大臣になったのが池田勇人。下村治等のブレーンを使って、高度成長政策を達成していった。

 池田の後を継いだのは佐藤栄作。2人の時代、1960年から1972年は、いわゆる高度成長時代。1956年度から1973年度の年平均成長率は9.1%。しばしば10%を超える成長率を達成したのだった。

 この池田勇人の側近が宮澤喜一だった。

 宮澤は池田と同様、元大蔵官僚。池田の強い勧めで1953年、広島県選挙区から初出馬し当選している。1962年、第2次池田改造内閣で経済企画庁長官として初入閣、弱冠42歳だった。池田首相のブレーンの一人として下村治等とともに「所得倍増計画」の一翼を担ったのだった。

 第1次佐藤内閣でも経企庁長官として入閣(1962~64年)。その後も、通産大臣、外務大臣、自民党総務会長等に要職を歴任していった。1991年から93年には宮澤内閣、宮沢改造内閣で内閣総理大臣を務めている。1993年には日本新党を中心とした野党勢力が集結して細川護熙内額が誕生、宮澤は自民党長期支配38年、及び55年体制最後の首相となったのだった。

 1998年には小渕恵三内閣が発足、宮澤は首相に強く請われて、当初は難色を示したものの、小渕の強い熱意の下蔵相就任を受諾した。戦前の高橋是清以来となる異例の総理経験者の蔵相就任だった。

 実は、この時、筆者は大蔵省の財務官。しばしば宮澤大臣とともにG7等の国際会議に出席したのを記憶している。宮澤大臣は英語の達人。国際会議はお手のものといった感じだった。

クリントン米大統領と並んで記者会見に臨む宮沢喜一首相=1993年7月6日、外務省飯倉公館

日米の戦後政治の中心に

 宮澤氏の経歴の中では、総理大臣時代、あるいは、大蔵大臣時代がスポットライトをあびることが多いが、彼は若い頃、池田勇人蔵相の秘書官として活躍している。

 宮澤氏は留学経験はなく、日米学生会議出席のため渡米しただけだが、英語の達人として知られていた。常時、英字新聞を読んだり、英語の雑誌や本を読んだりして、努力をして英語をマスターしたのだろう。よく、国会で英字新聞を読んでいるとやゆされたことがあったが、批判をした浜田幸一に対し、「国会議員なんだから、浜田さんも英字新聞ぐらいはお読みなさい」とやり返している。

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