2020年06月09日
「従順ならざる唯一の日本人」とは白洲次郎を称してGHQ要人が語った言葉と伝えられる。
白洲次郎は吉田茂の側近として占領下GHQと渡り合ったが、イギリス帰り(1919~25年にケンブリッジ・クレア・カレッジ留学)の流暢なイギリス英語を駆使して、GHQと対等に論争をしたと伝えられている。
白洲は貿易商白洲文平・芳子の次男として生まれた。白洲家は元三田藩の士族の出で、後に兵庫県伊丹市に移住している。
イギリス留学当時白洲次郎はブガッティ・タイプ35やベントレーを所持、1925年にベントレーを駆ってジブラルタル迄のヨーロッパ大陸旅行を実行している。カメラはライカを所有し、ヨーロッパ中の写真を撮ったのだった。
このイギリス留学中、時の駐イギリス特命全権大使吉田茂との面識を得、イギリス大使館を自らの定宿にするまでになったという。
イギリスから帰国後は、牛場友彦や尾崎秀実と共に近衛文麿のブレーンとして活躍している。近衛とは個人的な親交も厚く、近衛の奔放な息子・文隆の目付役をしていたこともあったという。
戦争中に東京都町田市に古い農家を購入し、政治や事業の一線から離れて農業に励む日々を送ったという。イギリス留学時代に日本とヨーロッパ諸国との国力差を痛感していた白洲は、当初から戦争反対の立場を貫いていた。
昭和天皇からダグラス・マッカーサーに対するクリスマス・プレゼントを届けた時に「その辺にでも置いてくれ」とぞんざいに扱われたため激怒して「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置けとはなにごとか!」と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせたと言われている。
妻の白洲正子は渡米しハートリッジ・スクールを卒業し、帰国後、次郎と結婚している。正子は随筆家として多くの著作を発表している。祖父は樺山資紀海軍大将であり、伯爵であった。
正子は女性として初めての能舞台にも立ち、東奔西走する姿から「韋駄天お正」とあだ名された。読売文学賞を二度受賞している。
一方、白洲次郎は1949年12月には貿易庁長官に就任、汚職根絶などに辣腕をふるい、商工省を改組して通商産業省(現在の経済産業省)を設立している。
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