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白洲次郎のこと~従順ならざる唯一の日本人

榊原英資 (財)インド経済研究所理事長、エコノミスト

 「従順ならざる唯一の日本人」とは白洲次郎を称してGHQ要人が語った言葉と伝えられる。

 白洲次郎は吉田茂の側近として占領下GHQと渡り合ったが、イギリス帰り(1919~25年にケンブリッジ・クレア・カレッジ留学)の流暢なイギリス英語を駆使して、GHQと対等に論争をしたと伝えられている。

英国大使館を自らの定宿に

 白洲は貿易商白洲文平・芳子の次男として生まれた。白洲家は元三田藩の士族の出で、後に兵庫県伊丹市に移住している。

 イギリス留学当時白洲次郎はブガッティ・タイプ35やベントレーを所持、1925年にベントレーを駆ってジブラルタル迄のヨーロッパ大陸旅行を実行している。カメラはライカを所有し、ヨーロッパ中の写真を撮ったのだった。

 このイギリス留学中、時の駐イギリス特命全権大使吉田茂との面識を得、イギリス大使館を自らの定宿にするまでになったという。

 イギリスから帰国後は、牛場友彦や尾崎秀実と共に近衛文麿のブレーンとして活躍している。近衛とは個人的な親交も厚く、近衛の奔放な息子・文隆の目付役をしていたこともあったという。

 戦争中に東京都町田市に古い農家を購入し、政治や事業の一線から離れて農業に励む日々を送ったという。イギリス留学時代に日本とヨーロッパ諸国との国力差を痛感していた白洲は、当初から戦争反対の立場を貫いていた。

初代東北電力会長に就任した白洲次郎=1952年11月20日

吉田茂を説得し、日本語で演説させる

1950年、首相特使として米訪問した白洲次郎
 終戦後は外務大臣に就任した吉田茂(1945年)の懇請で終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任し、GHQとの交渉にあたったのである。GHQの要請に対し、イギリス仕込みの英語で堂々と反論し、前述したように、「従順ならざる唯一の日本人」と称されたのである。

 昭和天皇からダグラス・マッカーサーに対するクリスマス・プレゼントを届けた時に「その辺にでも置いてくれ」とぞんざいに扱われたため激怒して「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置けとはなにごとか!」と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせたと言われている。

 妻の白洲正子は渡米しハートリッジ・スクールを卒業し、帰国後、次郎と結婚している。正子は随筆家として多くの著作を発表している。祖父は樺山資紀海軍大将であり、伯爵であった。

 正子は女性として初めての能舞台にも立ち、東奔西走する姿から「韋駄天お正」とあだ名された。読売文学賞を二度受賞している。

 一方、白洲次郎は1949年12月には貿易庁長官に就任、汚職根絶などに辣腕をふるい、商工省を改組して通商産業省(現在の経済産業省)を設立している。

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