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日本に「革命」は似つかわしくない~穏やかな「方針転換」だった明治維新

榊原英資 (財)インド経済研究所理事長、エコノミスト

 一般的に「明治維新」は薩摩や長州によって「開国」を目標に実行された「革命」だとされている。結果として、「鎖国」から開国へ動いていったのは事実だが、実は、それを目指したのは徳川幕府で、薩長は逆に、「尊王攘夷」を旗印に外国排除を唱えていたのだ。

 幕府の政策を鎖国から開国に変更したのは、いわゆる「安政の改革」を実行した老中首座だった阿部正弘。1853年ペリー提督が来航し開国と通商を求めるアメリカ大統領フィルモアの親書を持って来航すると、正弘は開国を決意し、1854年、日米和親条約を結んだのだった。

 ここに約200年続いた鎖国政策は終焉した。

阿部正弘の肖像画=福山誠之館同窓会所蔵

尊王攘夷を旗印に倒幕へ

 こうした開国論に反対したのが当時26歳の青年だった孝明天皇。これを支えたのが、「尊王攘夷」を掲げた薩摩と長州だった。

 長州の攘夷論の中心は松下村塾を開いていた吉田松陰。久坂玄端や桂小五郎(後の木戸孝允)等がこれに同調し、結束を固めた。他方、薩摩では西郷隆盛が中心になって攘夷論が展開していったのだ。後に、西郷は、攘夷は幕府を倒すための口実に過ぎなかったと述べているが、少なくとも、ある時期までは西郷も攘夷論を掲げていたと思われる。そして、長州も薩摩も尊王攘夷を旗印に倒幕にむかったのだった。

 周知のように、吉田松陰は日米和親条約、日米通商条約に強く反対し、これに松下村塾で教育を受けた久坂玄端、高杉晋作、伊藤博文、山形有朋等が同調した。そして、鳥羽伏見で薩長の中心とする新政府軍は幕府軍と激突し、新政府軍が勝利する。15代将軍徳川慶喜は幕府軍艦開陽丸で江戸へ退却、そして上野寛永寺大慈院で謹慎。新政府軍参謀西郷隆盛と勝海舟の会談によって江戸城は平和裏に新政府軍に明け渡される。

 そして、攘夷論を掲げて幕府を倒した薩摩も長州も、薩英戦争(1863年)、下関戦争(1863~64年)を経て、攘夷が不可能なことを知り、次第に開国へと舵を切っていった。「尊王攘夷」というポプュリズムに乗って倒幕を果たした薩長士肥も阿部正弘の開国路線を認めざるを得なかったのだ。

 そして、頑迷な攘夷論者であった孝明天皇も1865年には日米修好条約の勅許を出している。堀田正睦(時の老中首座)が勅許を求めたのが、1858年なので、それから7年の歳月が経過している。さすがに攘夷運動も弱体化し、日本全体が開国に向かうことになってゆく。

 つまり、阿部正弘以来の幕府の外交政策の妥当性が最終的には孝明天皇以下のかつての攘夷派にも認められたのだった。

岩倉具視=国立国会図書館提供
 こうした中で孝明天皇は公武合体論をとったのだが、1866年には崩御、翌1867年には明治天皇が15歳で即位。また、失脚していた岩倉具視が赦免され、薩摩の大久保利通、土佐の後藤象二郎等と連携して朝廷の実権を握った。1867年10月14日に大政奉還がなされ、1868年1月3日には王政復古の大号令が出され、新政府が樹立されたのだった。新政府内では、岩倉、大久保等が主導権を握り、新政府は大きく倒幕に傾いていったのだった。

 政策的には阿部正弘以来の幕府の開国政策を認め、尊王攘夷の大義名分は消えたはずだったが、尊王だけは残りそれが倒幕へ繋がっていったのだ。

 つまり、開国・攘夷論争は幕府が主導した開国論に収斂したのだが、尊王の部分は倒幕という形で残ってしまった。徳川慶喜はこれに反発し、京都に出兵、いわゆる鳥羽伏見の戦いが始まるが、前述したように、幕府が敗退「敗軍」となってしまったのだった。

政策的には幕府の正しさが証明され、権力闘争では幕府が敗れた

 尊王攘夷から尊王開国へのこの転換は、大きなねじれを内包したものだった。つまり、政策的には幕府の正しさが証明され、権力闘争では幕府が敗れたという事だ。

 西郷隆盛は明治維新後、「尊王攘夷というのはね。ただ幕府を倒す口実よ」と述べているが、おそらく、彼も薩英戦争の前は攘夷を信じていたのではないだろうか。

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