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社会的成功者たちが提唱する「ベーシックインカム」

それは弱者救済の切り札なのか、それとも弱者切り捨ての自己責任論なのか

原真人 朝日新聞 編集委員

各国で国家的実験や国民投票

 ベーシックインカムの実験を実施した国もある。カナダ(オンタリオ州)やフィンランドなどでは主に失業者対策としておこなわれた。イタリアでも2年前に誕生したポピュリズム政権が低所得者向けに現金給付を始めた。

 フィンランドが2017~18年におこなった実験は、2000人の失業手当受給者に月560ユーロ(約7万円)を給付するというもので、対象者を絞った実験だった。それを終えたあと、実施主体の社会保険機構は「就労している市民も対象に実験の拡大を」と政府に求めたが認められず、本格導入は実現しなかった。

 スイスでは4年前、大人に月2500スイスフラン(約28万円)、子どもに月625スイスフラン(約7万円)を給付するベーシックインカム制度導入案をめぐって国民投票がおこなわれた。結局、賛成23%、反対77%で否決され、導入は見送られた。

 米国でも、1960年代末から70年代初頭にかけて、米ニクソン政権がベーシックインカム制度法案を何度か提出し、成立寸前までいったことがある。きっかけはジョン・K・ガルブレイス、ジェームズ・トービン、ポール・サミュエルソンら著名な経済学者5人が1200人の学者の署名を添えて議会に導入を求める公開書簡を送ったことだった。これを受けて、ニクソン大統領がやや控えめなベーシックインカム法案を提出したのだが、下院を圧倒的多数で通過したものの、上院ではもめた末に「これでは不十分」という民主党の反対にあって廃案になった。

 今年の米大統領選の民主党候補者レースに出馬したアンドリュー・ヤン氏は、すべての米国の成人に毎月1000ドル(約11万円)の小切手を提供することを提案した。まだコロナ感染拡大前のことだったが、ヤン氏は早々に候補者レースから撤退を余儀なくされ、同案は大統領選のテーマから姿を消した。

 だがコロナ禍が世界に拡大した今年、ベーシックインカムの導入機運は改めて広がりを見せているようだ。スペインは6月、貧困世帯向けに月約1100ドル(約12万円)を提供するプログラムを導入。ドイツは8月、120人のドイツ人が3年にわたって月1400ドル(約15万円)を受け取る社会実験を開始した。各国がさまざまな形式での試行に乗り出す事例が出てきている。

AIに仕事を奪われた補償?

 ここ数年は米シリコンバレーの起業家たちも導入論を唱えていた。テスラCEOのイーロン・マスク氏やフェイスブック創業者のマーク・ザッカーバーグ氏らである。彼らがこの政策に関心をもった動機は、人工知能(AI)やロボットの急速な普及で多くの人間の仕事が奪われるのは避けられない、と予測され始めたことだった。

拡大テスラCEOのイーロン・マスク氏

 マスク氏は3年前の講演会で「これからは人間がロボットに勝る仕事はますます少なくなる。私がそうなってほしいと思う希望ではなく、おそらく現実になることだ」と述べたうえで、「普遍的なベーシックインカムは必要になると思う」と語った。さらにその財源については「商品やサービスの生産性が極めて高くなるだろう。自動化のおかげで豊かになると、ほとんどすべてのモノの値段が極めて安くなる」と述べ、経済成長によって財政支出もまかなえるようになるという楽観論をとっている。(「ハフポスト」2017年2月)

 宮本教授はこういう経営者たちの主張にはやや偽善を感じる、という。マスク氏らがそういう発言をする背景には、人々の不安や不満があるからだ。AIに仕事を奪われ、IT経営者のような超富裕層にばかり富が集中する現状は許せない、という庶民の怒りである。

 「このままでは人々の怒りが収まらない。ならばベーシックインカムでも出しておけばいい、というのが彼らの発想だろう」と宮本氏は見る。

 技術進化と社会の構造変化が必然的に失業増大と貧困拡大をもたらすという見立てには異論もある。経済学者の多くが指摘するのは、新たな技術革新で大量失業が生まれても、その環境に見合った新たな仕事が生まれ、雇用を吸収してきた歴史である。

 よく例に出されるのが19世紀初頭の産業革命の最中に起きた「ラッダイト運動」と呼ばれる機械打ち壊し運動だ。産業用機械の急速な普及が人間の仕事を奪ってしまうことへの危機感から生じた抗議運動だったが、実際は人々の仕事はなくならなかった。

 産業革命によって経済そのものが拡大し、金融や通信、交通、エネルギーなどの分野でさまざまな市場が広がった。新たな需要が生まれ、むしろ人間の仕事は増えていったのである。だからいま起きつつあるAI革命で奪われる仕事があっても、新たに生まれる市場や仕事が必ずあるはずだ、と経済学者たちは考えている。

 一方、ベーシックインカム推進派の主張には次のようなものもある。人は働きたくなければ働かなくてすむようになる、賃金労働にこだわらず自分にとって有意義なものにだけ時間を使えばよくなる、と。

 これについて萱野稔人・津田塾大教授はこう指摘する。「働きたいのに働けない人々の、働きたいという願望は、対価として賃金が支払われる仕事に就くことのみによってかなえられる。ベーシックインカムがあるから賃労働以外のことをすればいい、と言うのは、お金をあげるから仕事をあきらめろ、と言うのと変わらない。つまりベーシックインカムは基本所得を給付することで『労働からの排除』を固定化してしまう」(日経新聞2017年7月「やさしい経済学」)

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筆者

原真人

原真人(はら・まこと) 朝日新聞 編集委員

1988年に朝日新聞社に入社。経済部デスク、論説委員、書評委員、朝刊の当番編集長などを経て、現在は経済分野を担当する編集委員。コラム「多事奏論」を執筆中。著書に『日本銀行「失敗の本質」』(小学館新書)、『日本「一発屋」論 バブル・成長信仰・アベノミクス』(朝日新書)、『経済ニュースの裏読み深読み』(朝日新聞出版)。共著に『失われた〈20年〉』(岩波書店)、「不安大国ニッポン」(朝日新聞出版)など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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