2021年01月18日
ユーラシア大陸から荒海で隔てられた日本は外国にない様々な特色をもっているが、その最たるものは、日本には歴史上一度も「革命」が無いという事だろう。確かに「改新」(大化の改新)や「維新」(明治維新)はあったのだが、これは革命というより、歴史の区切りという事なのだ。
日本に「革命」が無いのは天皇制が神武天皇(日本書紀による神話)以来、連綿と続いているからだろう。今上天皇、浩宮徳仁は126代目、権力の変遷にも拘らず天皇制は継続してきた。古代、天皇家は権力を維持していたが、その後、権力が貴族や武家に移っても天皇は権威として存続し続けてきた。日本の歴史の多くの時期、権力は天皇以外の貴族や武家に握られていたが、権力者たちは天皇を権威として擁立し、それをいわば利用していたのだ。こうした形で万世一系の天皇が続いてきたのだった。
明治維新後の日本は第二次世界大戦後までは天皇を主権者として、大日本帝国憲法第一条では「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」としていた。つまり憲法の基本的考え方が「立憲君主制」だったのだ。天皇には統治権、軍隊の統帥権、そして立法権など天皇大権が与えられた。憲法は江戸時代の幕藩体制をストップさせて、天皇中心の中央集権国家を作った。また、立憲君主制の下、「日本は独立した文明である」と世界にアピールするという狙いもあったのだ。
明治維新から戦後までの78年は日本の長い歴史の中では、かなり特殊な時期であったと言えるのだろう。古代はともかく、天皇がこれ程の権力を持ったのは珍しい事だったといえる。そして、立憲君主制の下で、明治政府が樹立し、憲法も制定され、日本は近代国家としての基礎を作っていった。日清戦争、日露戦争にも勝利し、まさに「坂の上の雲」を目指して日本が上昇していった時代だった。
このプロセスで明治天皇の存在感はかなり大きなものだったと言えるのではないだろうか。天皇は「近代国家日本の指導者」として国民から畏敬されたが、日常生活は質素を旨とし、どれほど寒冷な時でも暖房は火鉢一つだけ、夏も軍服を着用し続け執務するなど、自己を律すること峻厳にして、天皇としての威厳の保持に努めたという。
明治天皇を崇拝していた一人が日露戦争の英雄乃木希典だった。明治天皇の勅命で学習院院長を務めたが、明治天皇の崩御後、大喪の日、妻静子と共に殉死し、社会の波紋を呼んだ。明治天皇は日本の伝統を守りながらも、外国から学ぶことに積極的で、次のような御製の句を残している。
よきをとり あしきをすてて 外国(とつくに)におとらぬ国となすよしもがな
戦後、新憲法で「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」とされ、「天皇はこの憲法を定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権限を有しない」と規定されている。いわゆる象徴天皇制である。明治以来の大きな権限は失われたが、天皇制そのものは存続することになったのだ。
実は、日本の敗戦後、中国の蒋介石やイギリスのチャーチル、ソ連のスターリンなどは天皇制の廃止を求めていた。また、アメリカの上院では1945年9月「天皇を裁判にかけよ」と決議されたのだった。ただ、GHQの最高司令官ダグラス・マッカーサーはアメリカ政府に進言し、「天皇制によって日本国民を統合し、間接統治をしたほうがアメリカの国益に適う」とし、天皇制は維持された。
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