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都立名門校の復権と「坂の上の雲」〜日比谷高校の思い出と学費の問題

豊富な人材を生んだ名門校が公立校であった意味

榊原英資 (財)インド経済研究所理事長、エコノミスト

 筆者は都立日比谷高校を1960年に卒業し、東京大学に入学した。そのころは神奈川県鎌倉市に住んでいたのだが、一時間半かけて日比谷高校に通っていた。当時、日比谷高校は東京大学入学者数ナンバーワンの高校(1957年は107人、ピークは1964年192人)だった。

 日比谷高校にはいわゆる「寄留」して、筆者のように遠くから通っていた学生が少なくなかった。バスケットボール部に入っていたので、練習を終えて帰宅すると夜の8時近くになるのが通常であった。ただ、「日比谷つぶし」とも言われた「学校群制度」の導入で、日比谷高校からの東京大学入学者は急激に減少し、1993年にはついに1人になってしまった。

国会議事堂も見える都立日比谷高校拡大国会議事堂も見える都立日比谷高校

 代わって台頭してきたのが私立の開成高校や筑波大附属駒場高校、桜蔭高校などだった。2020年の東大入学者数は開成高校185人、筑波大学附属駒場高校93人、桜薩高校79人と、いずれも中高一貫校で、名門大学と称される東京大学の他 京都大学、一橋大学、東京工業大学などに多くの合格者を出している。

 筆者が住んでいた鎌倉の中学からは、優秀な人たちは県立湘南高校に行くことが多かった。元東京都知事の石原慎太郎氏や外交評論家の岡本行夫氏などが湘南高校を卒業している。筆者の親しい友人の多くも湘南高校に進学していたが、筆者は偶々東京に引っ越した友人から刺激を受け、日比谷高校に進んだのだった。

錚々たる顔ぶれだった日比谷高校OB

 日比谷高校では多くの素晴らしい友人を得ることが出来た。皇室医務主管日本学術会議会長を務めた金澤一郎さんは終生付き合った親友だった。後に共に大蔵省に入った秋山昌廣(元防衛事務次官)や中島義雄さん(元セーラー万年筆株式会社社長)も日比谷高校の同級生だった。2004年~2010年に三菱商事の社長を務めた小島順彦さんもまた、日比谷高校の同級生だ。

加藤紘一さん(2012年撮影)拡大加藤紘一さん(2012年撮影)

 内閣官房長官、防衛庁長官などを歴任し、自由民主党幹事長を務めた加藤紘一さんは日比谷高校の先輩だ。政治家では松崎哲久さん、小林興起さんなども日比谷の同窓生。ともかく、当時の日比谷高校には、そうそうたる面々がそろっていた。東京大学に入学するためにはベストな高校だったのだろう。

 全校で400人、うち男子300人、女子100人だった。女子は有名女子高などが多く、日比谷はそれほど人気が無かった。男子は300人の内ほぼ半分から3分の2が東大に入学していた。ともかく優秀な人が多かった。毎年、成績の順位を発表するのだが、筆者は1年生の時100番だったのでかなりショックを受けたのを記憶している。鎌倉の小学校、中学校では常に1番から5番までには入る成績であったのだから。その後、発奮して、少し順位を上げることは出来たが、ともかく優秀な友人たちが多かったのだ。

 実は、筆者は日比谷高校2年生の時、アメリカに1年間留学し、ペンシルバニア州のヨーク市立ヨーク高校を卒業することが出来た。日比谷に戻ってきたときは再び2年生に編入したのだが、東京大学はヨーク高校卒業をもって受験し合格した。それ故、日比谷高校は2年生で中退という事になった。中退というと何か悪いことをしたようで聞こえが悪いので、学校に頼んで、卒業生の中に加えてもらった。

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筆者

榊原英資

榊原英資(さかきばら・えいすけ) (財)インド経済研究所理事長、エコノミスト

1941年生まれ。東京大学経済学部卒、1965年に大蔵省に入省。ミシガン大学に留学し、経済学博士号取得。1994年に財政金融研究所所長、1995年に国際金融局長を経て1997年に財務官に就任。1999年に大蔵省退官、慶応義塾大学教授、早稲田大学教授を経て、2010年4月から青山学院大学教授。近著に「フレンチ・パラドックス」(文藝春秋社)、「ドル漂流」「龍馬伝説の虚実」(朝日新聞出版) 「世界同時不況がすでに始まっている!」(アスコム)、「『日本脳』改造講座」(祥伝社)など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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