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大蔵省を籠絡した外資企業の〝どぶ板〟営業

【1】ゴールドマン・サックスの官僚接待/1999年

大鹿靖明 ジャーナリスト・ノンフィクション作家(朝日新聞編集委員)

 四半世紀以上、経済記者をつとめてきました。現場を回っている経済記者の中ではいまや同業他社も含めて最古参のひとりです。過去のノートやメモからこれまで見てきた経済事件のインサイドストーリーを月1回のペースで連載していきます。本記事は「帝王と呼ばれる男の力量」(AERA2005年8月15日~22日号)執筆時の2004年12月~05年9月までの4冊のゴールドマン・サックス取材ノートに依拠しています。

巧みな接待で食い込んだゴールドマン・サックス

 東北新社やNTTによる総務省の高級官僚への接待は、20年余り前の大蔵接待汚職を思い起こさせる。プライベートジェット機に乗せて海外旅行に連れて行ったりノーパンしゃぶしゃぶで饗応したりするなど、あれは接待という名の実質的な贈賄行為だった。その反省から国家公務員倫理法が定められたが、歳月がたって霞が関では事件の記憶が風化し、もはや遵法意識は失われていたらしい。

 いや、それはもう、とうの昔からそうだったかもしれない。接待汚職の記憶がまだ生々しかった1999年、ゴールドマン・サックスは巧みな接待で大蔵省に食い込んだ。NTT株の放出において主幹事証券会社の地位を獲得したのである。

NTT株の第1次放出。投資家の相談を受ける係員=1986年10月20日、東京・銀座の日興証券

 私が地方勤務を終えて朝日新聞東京本社の経済部に配属されたのは1997年のことだった。野村證券など4大証券の総会屋利益供与事件に続き、北海道拓殖銀行と山一證券が相次いで破綻し、日本発の金融恐慌が招来するのではないかと心配した。最強官庁として国政を差配していた大蔵省では、眉を顰めるような醜聞が後を絶たず、多くの国民がこの国のエリートの人品骨柄に疑念をもつようになった。

 ちょうどそのころ、ゴールドマン・サックスの持田昌典は大蔵省理財局の国有財産総括課に照準を合わせていた。かつての電電公社は、NTTとして民営化された後も政府が圧倒的な大株主でいた。1986年の第1次から88年の第3次の売り出しまで3回に渡って政府保有のNTT株が少しずつ売却されてきたが、それを引き受けて市場放出を仕切る主幹事証券会社の座に就いたのは3回とも4大証券会社――野村、大和、日興、山一であり、外資系証券会社はお呼びではなかった。

 政府はその後も放出の機会をうかがったが、バブル経済崩壊後の株式市況の低迷に加えて、大手証券会社のスキャンダルが続発し、とてもNTT株を売却する段取りをつけることはできなかった。そんな長年の懸案が98年、10年ぶりに動き出そうとしていた。持田はこの年、ゴールドマンの東京支店長に就いたばかりだった。

 持田昌典は、羊毛卸し会社の社長の息子として裕福な家庭に育ち、幼稚舎からの慶応ボーイだった。塾高時代にラグビー部で鳴らし、花形プレーヤーだったという。慶応大を卒業後、第一勧銀に入行し、第一選抜で主事に昇格、社費で米ペンシルベニア大ウォートン校に留学したが、85年にゴールドマンに転職した。父の経営する会社が傾き、メインバンクの一勧が再建に入ったことで銀行にいづらくなったのかもしれない。「電話の加入権まで取り上げられて、それで恨みに思っている」と一勧同期の小説家、江上剛は言った。同級生の小倉屋山本の山本博史社長は「持田君は銀行に入った後も熱心に英語を勉強していた。ご実家の倒産のこともあったろうが、会社から留学させてもらったのに転職するというのは当時、相当勇気のいることだった」と言う。

 そんな生い立ちのせいか、持田には育ちがよさそうに見える半面、どこか影のようなものがあった。

高級官僚ではなく下積みのノンキャリを懐柔

 ゴールドマンは世界に名だたる投資銀行(インベストメントバンク)である。投資銀行という業態は日本にないからわかりにくいが、日本の大手証券会社の個人客むけ部門がなく、代わりにコンサルティング会社の機能をもったようなものと考えればいい。大企業や金融機関相手に資金調達を用立て、さらに経営戦略立案やM&Aのお手伝いをする。だが持田の持ち味はそんな金融テクニックを披露するというよりも、むしろ腰の低さとフットワークの軽さにあった。日本流の〝どぶ板〟営業である。

 大蔵省は98年、10年ぶりのNTT株放出に向けて、主幹事証券会社をどう選ぶか選考基準を定め、理財局次長や同局総務課長をメンバーとする審査委員会を設けた。主幹事になれば莫大な

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