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重光葵~戦後活躍したA級戦犯

日本の国連加盟を実現させた外交官出身の外務大臣

榊原英資 (財)インド経済研究所理事長、エコノミスト

外務次官のころの重光葵=1934年
晩年の重光葵

 重光葵は1911(明治44)年9月、外務省に入省している。文官高等試験外交科に合格した同期には、後に首相になった芦田均などがいた。1930(昭和5)年には駐英公使となり、その後、中ソ公使、駐英大使を歴任している。

戦中は東条英機のブレーンの外相。戦後は巣鴨に収監

 1941(昭和16)年に大東亜戦争(太平洋戦争)が始まった後は東条英機内閣、小磯国昭内閣において外務大臣を務めている。

米戦艦ミズーリの艦上で、連合国軍最高司令官が提示した降伏文書に調印する日本の全権、重光葵外相。テーブルの手前、後ろ向き右がマッカーサー元帥。後方に並ぶのは各国代表。向こう側は日本代表団=1945年9月2日
 東条首相のブレーンとして自らの主張を現実にするために、1943年、大東亜会議を開くために奔走し、同年、11月5日から6日に会議を開くことに成功した。周知のように、同会議にはビルマの初代国家代表のバー・モウ、中華民国の初代首席・汪兆銘、インドのチャンドラ・ボーズ等が出席している。

 こうした経緯から、戦後はA級戦犯として禁固7年の判決を受け、巣鴨拘置所に収監された。A級戦犯としては最も軽い刑だったが、逮捕から4年7カ月ほど拘置所生活を送っている。判決後も2年ほど続き、判決後2年で仮出所となっているが、この仮出所はGHQによる恩赦によるものであった。

東京・市谷の極東国際軍事裁判所に出廷する重光葵被告=1948年11月
極東国際軍事裁判の判決で、禁固7年の量刑言い渡しを聞く元外相の重光葵被告=1948年11月12日

公職復帰で衆院3期、政党首脳歴任、4回目の外相

 重光は講和条約の発効、公職追放解除後、衆議院議員に3回選出されている。

 改進党総裁、日本民主党副総裁を務めている。改進党総裁であった1952(昭和27)年に野党首班候補として内閣総理大臣の座を吉田茂と争い、敗れている。その後、鳩山一郎派と合流して日本民主党を結党させ、1955(昭和30)年の保守合同による自由民主党の結党に参加している。

 1954(昭和29)年から1956年12月の期間、第1次~第3次鳩山内閣で、重光は第二次世界大戦中の3回に続いて4回目の外務大臣を務めている。1955年4月、インドネシアでアジア・アフリカ29カ国が集まるアジア・アフリカ会議(バンドン会議)が開かれ、アジア・アフリカの諸国が第三勢力として協力し合う方針を打ち出した。日本はこの会議でアジアの一員として国連加盟の支持を得ている。

国民民主党、農民協同党、新政クラブなどで結成した保守政党「改進党」の臨時全国大会が東京・日比谷公会堂で開かれ、重光葵を初代総裁に選んだ。写真は杖をついて公会堂を出る重光新総裁を迎える群衆=1952年6月13日

国連本部で加盟受諾演説。「思い残すことなし」

 1956年12月18日、国連総会は加盟76カ国の全会一致で日本の国連加盟を承認した。重光は日本の加盟が認められたことに対する加盟受諾演説で「日本は東西の懸け橋になりうる」と表明し、多くの加盟国代表から拍手で受け入れられた。

 その直後に国連本部内庭に自らの手で日章旗を掲げた重光は、その時の心境を「霧は晴れ国連の搭は輝きて高く掲げし日の丸の旗」と詠んでいる。

 帰国前の12月23日、日本では第三次鳩山内閣が総辞職して、石橋湛山内閣が成立していたため、重光も辞任して、岸信介に外相ポストを譲った。日本への帰途、重光は同行した加瀬俊一に対して笑顔で「もう思い残すことはない」と語ったという。

 2021年現在、日本の外務大臣で外務官僚の経歴を持つ人物は重光が最後となっている。

日本の国際連合への加盟が認められ、総会で加盟あいさつの演説をする重光葵外相=1956年12月18日、米ニューヨークの国連本部

「英米派」外務官僚の芦田、吉田は総理大臣に

 尤も、戦後しばらくは、「英米派」外務官僚が相次いで総理大臣を務めている。

 1948(昭和23)年3月から10月まで第47代総理大臣を務めた芦田均はロシア、トルコ、ベルギーなどの大使館勤務を経験している。実は、筆者の父、榊原麗一は芦田総理の秘書官を務めていた。当時は占領下だったので、アメリカ生活が長かった父は、主としてGHQとの連絡、交渉を受け持っていた。

 また、戦後政治の流れを作った吉田茂も元外交官。中華民国の奉天の領事を務めていた。1936(昭和11)年、駐イギリス大使になっている。占領下では、芦田や吉田のような「英米派」外交官が重用されたのだ。

2月に結党したばかりの改進党は、吉田茂内閣の「抜き打ち解散」の総選挙で85人が当選。喜びに沸く党首脳。一人おいて左から重光葵総裁、三木武夫幹事長、芦田均顧問=1952年10月2日

日本の政治に影落としたGHQ内の権力争い

 社会党の片山哲や民主党の芦田均をバックにしたのはGHQ民政局(GS)のチャールス・ケーディス大佐、アルフレッド・ハッシー中佐、マイロ・ラウエル中佐等で、彼らが日本国憲法を作るための「運営委員会」のメンバーだったのだ。民政局の多くのメンバーたちは、フランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策に参画したニューディーラー達だった。

 これに対し、参謀第二部(G2)は保守派が多く、保守派の吉田茂を支持していた。占領軍内の権力争いで、最終的にはG2がGSに勝利し、チャールス・ケーディス等ニューディーラー達は失脚する。

 1949(昭和24)年5月にはケーディスは民政局次長を辞任し、帰国した。ケーディスは鳥尾鶴代(子爵夫人)との不倫関係も暴露され、それが失脚の一つの原因になったとも言われている。ケーディスが辞任した後、1945~48年に日本に駐在したロバ―ト・マイケルバーガーは「彼は日本人に自ら手本を示した。空虚な理想主義は奢りと腐敗に溺れ、自滅する」とコメントしている。

吉田茂首相(左から2人目)と重光葵・改進党総裁(その右)の会談が鎌倉市の重光邸で行われ、自衛力増強の長期計画策定と、保安隊の自衛隊への改組で一致。自由・改進両党の了解ができた=1953年9月

政治家としても力量発揮した重光

 重光は、国連総会から帰国して1カ月後の1957(昭和32)年1月26日、狭心症により、神奈川県湯河原町の別荘で急逝した。

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