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重光葵~戦後活躍したA級戦犯

日本の国連加盟を実現させた外交官出身の外務大臣

榊原英資 (財)インド経済研究所理事長、エコノミスト

「英米派」外務官僚の芦田、吉田は総理大臣に

 尤も、戦後しばらくは、「英米派」外務官僚が相次いで総理大臣を務めている。

 1948(昭和23)年3月から10月まで第47代総理大臣を務めた芦田均はロシア、トルコ、ベルギーなどの大使館勤務を経験している。実は、筆者の父、榊原麗一は芦田総理の秘書官を務めていた。当時は占領下だったので、アメリカ生活が長かった父は、主としてGHQとの連絡、交渉を受け持っていた。

 また、戦後政治の流れを作った吉田茂も元外交官。中華民国の奉天の領事を務めていた。1936(昭和11)年、駐イギリス大使になっている。占領下では、芦田や吉田のような「英米派」外交官が重用されたのだ。

拡大2月に結党したばかりの改進党は、吉田茂内閣の「抜き打ち解散」の総選挙で85人が当選。喜びに沸く党首脳。一人おいて左から重光葵総裁、三木武夫幹事長、芦田均顧問=1952年10月2日

日本の政治に影落としたGHQ内の権力争い

 社会党の片山哲や民主党の芦田均をバックにしたのはGHQ民政局(GS)のチャールス・ケーディス大佐、アルフレッド・ハッシー中佐、マイロ・ラウエル中佐等で、彼らが日本国憲法を作るための「運営委員会」のメンバーだったのだ。民政局の多くのメンバーたちは、フランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策に参画したニューディーラー達だった。

 これに対し、参謀第二部(G2)は保守派が多く、保守派の吉田茂を支持していた。占領軍内の権力争いで、最終的にはG2がGSに勝利し、チャールス・ケーディス等ニューディーラー達は失脚する。

 1949(昭和24)年5月にはケーディスは民政局次長を辞任し、帰国した。ケーディスは鳥尾鶴代(子爵夫人)との不倫関係も暴露され、それが失脚の一つの原因になったとも言われている。ケーディスが辞任した後、1945~48年に日本に駐在したロバ―ト・マイケルバーガーは「彼は日本人に自ら手本を示した。空虚な理想主義は奢りと腐敗に溺れ、自滅する」とコメントしている。

拡大吉田茂首相(左から2人目)と重光葵・改進党総裁(その右)の会談が鎌倉市の重光邸で行われ、自衛力増強の長期計画策定と、保安隊の自衛隊への改組で一致。自由・改進両党の了解ができた=1953年9月

政治家としても力量発揮した重光

 重光は、国連総会から帰国して1カ月後の1957(昭和32)年1月26日、狭心症により、神奈川県湯河原町の別荘で急逝した。

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筆者

榊原英資

榊原英資(さかきばら・えいすけ) (財)インド経済研究所理事長、エコノミスト

1941年生まれ。東京大学経済学部卒、1965年に大蔵省に入省。ミシガン大学に留学し、経済学博士号取得。1994年に財政金融研究所所長、1995年に国際金融局長を経て1997年に財務官に就任。1999年に大蔵省退官、慶応義塾大学教授、早稲田大学教授を経て、2010年4月から青山学院大学教授。近著に「フレンチ・パラドックス」(文藝春秋社)、「ドル漂流」「龍馬伝説の虚実」(朝日新聞出版) 「世界同時不況がすでに始まっている!」(アスコム)、「『日本脳』改造講座」(祥伝社)など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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