韓国の影を消したいLINEの企業統治
【2】東日本大震災とLINEの誕生/2011年
大鹿靖明 ジャーナリスト・ノンフィクション作家(朝日新聞編集委員)
「震災で生まれた日本発の新しいサービス」というストーリー
このころLINEの戦略や事業をマスコミに対して話す「語り部」は、戦略担当の舛田淳執行役員だった。彼は生い立ちを含めて興味深い「ストーリー」をもった人物だった。
川崎市出身で地元の小中学校を卒業した後、私立の進学校に入ったものの1年生の終わりには退学した。本人いわく「自分が学校にいると、みんなを扇動して困る、ということだった。それで先生に辞めるように促された」。1年生で中退というのは、この年頃にあっては相当のショックだったろう。「無意識のうちに敷かれているレールというのがありますよね。それがある日突然なくなるんです。あれ、これから先、レールがないや、って」。ガソリンスタンドや工場などでバイト生活をして暮らしたが、大学に進学しようと考え直して大検を受けて、早大社会科学部に進学。サークルの放送研究会の代表を務め、学生時代からテレビ番組や雑誌の企画づくりにかかわっていくうちに、そっちの方が楽しくなり、中退してフリーの企画屋になった。だから最終学歴は中卒だ。小は商店街のお祭りから大はアイドル番組の制作まで携わっていくうち、2000年ごろから産声を上げたばかりのネットビジネスの企画に参画するようになってネット業界に転じ、LINEが4社目だった。
放送作家という前歴も手伝い、彼はLINEの物語を創作する作家だった。東日本大震災によって生まれた日本発の新しいサービスというストーリーは、彼によって仕立てられ、代わりにLINEの出自の「韓国」は封印されていった。彼は「日本には嫌韓のムードがある」「ことさら韓国に注目しないでほしい」と、韓国のカの字でも言及されるのを嫌がった。社内のあちこちにハングル表記の案内板があり、LINEを訪れた人が「この会社は韓国系の会社なんだな」と思うのが当たり前であるにもかかわらず、である。それでも彼は韓国にスポットライトが当たるのをそらし、カムフラージュした。戦略担当という自身の位置づけを、「自分はモノの創造者ではなくて、ストーリーテラー」と言っていた。
それから3年後、LINEが東証に
・・・
ログインして読む
(残り:約3836文字/本文:約6252文字)