対照的だった芦田均と吉田茂
2021年05月19日
1945年、敗戦の時から7年間、1952年迄日本は連合国最高司令官司令部(GHQ)の支配下にあった。間接統治の形を取っていたので、日本側が内閣を組織し、指示・命令はしていたが、これもGHQの了解をとってのことだった。GHQの意向もあり、日本政府はかつて欧米派の外交官であった芦田均や吉田茂によって組織されていた。直接の統治は日本政府によってなされたが、全てGHQの了解のもとに行われていたのだった。
GHQで当初、力をもっていたのは「民政局」、その中心人物はチャールズ・ケーディス大佐、アルフレッド・ハッシー中佐、マイロ・ラウエル中佐等だった。彼らはいわゆるニューディーラーの流れを継ぐ人たちで、リベラルな考えを持ち、中道左派的なグループだった。日本国憲法のGHQ草案を作ったのは彼らで、其の草案は全92条からなり、第一条は天皇を象徴と位置づけ、次のように書かれた。
「第一条、天皇は、日本国の象徴であり、日本国国民統合の象徴である。 この地位は、主権を有する国民の総意に基づくものであって、それ以外の何ものにも基づくものではない」。 最終的に最後の一行は落とされ、「主権の存する日本国民の総意に基づく」と変更されたが、基本である「象徴」の表現はそのまま踏襲されたのだった。しかし、民政局と組んだ芦田均は参謀第二部と組んだ吉田茂に敗れ、昭和電工事件に巻き込まれ、政界を去る事になる。現実主義的だった吉田茂に対して、芦田は「空虚」とまではいかないが、若干理想主義的なところがあったのだろう。
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