フランスにみる「半大統領制」の流れ
2021年06月07日
「半大統領制」とはあまり聞き慣れない言語だが、フランス第5共和政やロシア連邦のように大統領と首相が二頭政治を布いて権力を拮抗させる政治制度を呼ぶ言葉である。これに対し、アメリカのように大統領のみで、大統領に強大な権限を与え、議会をこれに、ある程度、対峙させるシステムも多くの国で取られている。アルゼンチン、インドネシア、チリ、ブラジル、ペルー、メキシコ等がアメリカ型大統領制を取っている。大韓民国は国務総理(首相)が置かれているが、行政府の長はあくまで大統領である。
フランスの第5共和政を発足させたのは、シャルル・ドゴールで、第4共和政に比べて立法府(国民議会)の権限を大きく低下させ、大統領の執行権を強化したのである。1946年から、フランス等西洋諸国は高度成長の時代に突入する。第5共和政はそんな「栄光の30年」という時代に誕生し、いくつかの政治的、外交的危機はあったものの、経済的繁栄を謳歌したのだった。又、この30年間の間に、フランス人のライフスタイルも大きく変化し、地方からと都市へ移住する人々が増加した。そして、その結果として、パリ周辺のニュータウンや地方の中核都市などで人口増加がもたらされたのだった。
1968年にいわゆる「5月危機」(「五月革命」とも呼ばれ、学生たちの暴動をきっかけとした反ドゴール運動。又、この年にはベトナム反戦運動が盛り上がり、学生運動が世界的に広がりを見せた)が起こり、これがきっかけになってドゴールは辞職に追い込まれた。その後、ドゴールの後継としてポンピドゥーが大統領に選出されたが、1974年、彼は死去し、又、この年発生した第一次石油ショックによって、経済不況に陥り、「栄光の30年」も終わりを告げたのだった。
ポンピドゥーの死去に伴って行われた選挙によってジスカール・デスタンが大統領に選出される。ジスカールの外交は「新大西洋主義」と呼ばれ、それまでのドゴール主義的な外交とは異なり、対米協調的な路線であった。1981年の大統領選挙では、ジスカールの収賄(中央アフリカのボカサ大統領からダイヤモンドを収賄として受け取ったとされている)によって敗退し、左派のミッテランが大統領に選出された。1986年に行われた総選挙の結果を受け、ミッテランは首相に右派のジャック・シラクを任命し、大統領与党と首相与党が異なるコアビタシオン状態となったのだ。
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