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おっとりした殿様企業の社風を変えた社長交代劇

【4】三菱電機の社内政変/1998年

大鹿靖明 ジャーナリスト・ノンフィクション作家(朝日新聞編集委員)

 三菱電機でパワーハラスメントが原因とみられる社員の自殺や労災が相次いでいる。私が電機業界を担当していた1997~1999年当時、三菱電機は大手電機メーカーの中では最もおっとりした雰囲気の会社で、日立製作所、東芝、三菱電機の総合電機3社の社風の違いを評して「日立は野武士、東芝はお公家さん、三菱は殿様」と言われていた。その、のんびりした社風が変わろうとする転換期に私はたまたま遭遇した。

三菱電機「奥の院」で生じた異変

拡大三菱電機の拠点に掲げられたロゴマーク

 耳を疑う情報をキャッチしたのは、1998年1月17日の土曜日の昼下がりだった。

 地方勤務から東京経済部に異動し、97年4月から電機業界を担当することになった私は、自身の持ち場の主要企業のなかで「これは」と目星をつけた社長や役員を定点観測のように朝駆け、夜回りすることにしていた。ある日はソニー、翌日は日立製作所、その次は東芝。そうやって、相手がいそうな休日の午後を狙って自宅を訪問したのが三菱電機の役員だった。

 リビングに通され、彼は業界動向や社内事情をひとしきり話した後、おもむろに切り出した。「実は、かなりの役員が『社長はもう辞めるべきだ』と言っているんだ」。そのうえで、こう打ち明けた。「これはあくまでも私の個人的な見解だから記事にしないでほしいが、実は私も社長は辞めるべきだと思っている」。キッチンで聞き耳をたてていた奥様がハラハラしながら、こちらの様子をうかがっているのがわかった。

 三菱電機の「奥の院」で異変が生じていることをつかんだ瞬間だった。

 役員たちが離反しつつあった社長とは、経団連副会長でもあった北岡隆のことである。1992年に社長に就任し、このとき在任6年。伝統的な主流派である重電部門出身ではなく、この当時「電子立国」と脚光を浴びていた半導体部門を率いてきた。94年には「ビジョン21」という経営計画を打ち出し、それまでの重電中心の事業内容を改め、半導体や液晶など電子デバイス部門を強化するとともに、コンピューターと情報通信技術、映像機器の融合による新事業を目指した。

 三菱電機の各事業分野はどれもこれも業界内3~5位にあり、低位に安住する〝ぬるま湯〟的な体質にあったが、北岡は6つの分野で業界トップをめざすという野心的な目標を掲げ、パソコンやモバイル機器、デジタル家電を強化すると宣言した。

 最初は順調に行くかにみえたが、メモリー用の半導体DRAMの市況が悪化し、97年9月中間決算で赤字に転落した。日立や東芝が黒字を維持する中、相対的に体力が劣る三菱は、ひとたび赤字に陥ると、雪だるま式に赤字が膨らむようになった。

 おまけに97年10月には総会屋に利益供与していたとして総務部の担当幹部が警視庁に逮捕された。三菱電機は年間5000~6000万円を幾人もの総会屋に払っていた(怪しげな財界誌や経済誌を含めると年間1億6000万円になっていた)。毎年の株主総会終了後、北岡が「ご苦労さん」と総会担当の総務部幹部にビールを注いでいたことから、社長が事件後「部下がやったこと」としらを切ると、事情を知っている社員は白けてしまった。

 それなのに北岡は事件の渦中、予定されていたこととはいえ北米出張を強行した。不要不急の行事ばかりで、4日間の出張のうち2日がゴルフだったという。それが社内に伝わると、心ある社員は眉をひそめた。年が明けた98年1月、三菱電機は、赤字を垂れ流していた米国ノースカロライナの半導体工場におけるDRAM生産を撤退することを決めた。日米貿易摩擦の標的になるまいと現地生産に踏み切る決断をしたのは北岡だった。

 役員が私に対して社長退陣に言及したのは、米国からの半導体生産撤退が明らかになった直後だった。


筆者

大鹿靖明

大鹿靖明(おおしか・やすあき) ジャーナリスト・ノンフィクション作家(朝日新聞編集委員)

1965年、東京生まれ。早稲田大政治経済学部卒。ジャーナリスト・ノンフィクション作家。88年、朝日新聞社入社。著書に第34回講談社ノンフィクション賞を受賞した『メルトダウン ドキュメント福島第一原発事故』を始め、『ヒルズ黙示録 検証・ライブドア』、『ヒルズ黙示録・最終章』、『堕ちた翼 ドキュメントJAL倒産』、『ジャーナリズムの現場から』、『東芝の悲劇』がある。近著に『金融庁戦記 企業監視官・佐々木清隆の事件簿』。取材班の一員でかかわったものに『ゴーンショック 日産カルロス・ゴーン事件の真相』などがある。キング・クリムゾンに強い影響を受ける。レコ漁りと音楽酒場探訪が趣味。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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