アクティビストに負けた東芝~「日本型資本主義」の復活はありうるか
世界の企業が表向き持つ「倫理」は正しいのか? 日本人的道徳は通用しないのか?
酒井吉廣 中部大学経営情報学部教授
東芝の定時株主総会が終わってから約1カ月が経つ。この間、東芝は新たなCEO候補、また取締役候補を探してきたはずだが、まだ決まらないのだろうか。
筆者は「論座」で6月30日付「東芝・永山取締役会議長の再任に株主が『ノー』を突き付けた理由」と、7月15日付「東芝『株主への圧力問題』の調査報告書をめぐる疑問と違和感」の二つを書いたが、これらに対しては直接・間接に多くのコメントを戴いた。この場を借りて深く御礼申し上げたい。
いただいた意見を総合すると、前者については、「日本企業では経営判断は執行部サイドの仕事であり、取締役会も執行部が作ったストーリーに乗るのが基本」というものだった。東芝に限らず日本企業では、終身雇用制のもとで、「会社は社員のためのもの」という考え方が色濃く残り、経営と執行は分離されていないという指摘である。
後者については、日本では馴染みの薄い「フォレンジック調査」の説明に興味を持っていただいたと同時に、「第三者委員会」の見直しの必要性、日本と米国ではコンプライアンスの考え方が違うのではないか、というものが目立った。日本では、ガバナンスもコンプライアンスも形式的なものに陥り、機能していないという指摘だ。
どちらも日本の現実が見て取れて興味深い。本稿では、こうした意見等も踏まえ、企業経営にかつての日本人的な道徳(morality)は通用しないのか、表向き世界のすべての組織が持っている倫理(ethics)は正しいのか、という点について論じたい。誤解を恐れずに言えば、「日本型資本主義」の復活はありうるのか、ということである。

6月25日にあった東芝の定時株主総会は、経営側の「敗北」となった=東京都新宿区
企業倫理の観点から攻めたエフィッシモ
今年6月10日に公表された「調査人の調査報告書」で不正と決定付けられるほどの問題として扱われた昨年のプロキシーファイトは、Effissimo Capital Management Pte Ltd(以下、エフィッシモ)側が勝利する結果となった。東芝はこれに1年以上を費やすというミスを犯した。
まず押さえておくべきは、エフィッシモが企業倫理上も東芝の取締役会に勝っていたという点である。「企業倫理」とは、今回の例で言えば、株主と取締役会・企業の執行部サイドが対立した場合、企業として最適な判断をする際の規範である。
エフィッシモのようなアクティビスト(モノ言う株主)の目的は、あくまで「リターンの極大化」(≒株価の上昇と配当の高額化)であり、その方法については取締役会に任せている。取締役の行動が、株主が考える企業倫理の観点から納得できるものでない場合、その取締役は解任されて当然だ。
仮に、株主からの要求が、明らかに無理筋なリターンを求めるものであれば、取締役会はそれを変更させる能力が必要である。「調査人の調査報告書」を100%信用するならば、東芝の場合、執行部サイドも取締役会も、企業倫理の観点から攻めるエフィッシモに自力では抗しえず、政府に頼らざるを得なかったことになる。