【6】ニッポン放送とピンク・フロイド/2005年
2021年08月20日
ニッポン放送は2005年2月8日、不意打ちを食らい、あわてふためいた。襲撃したのはライブドア。新興のIT企業だが、前年のプロ野球参入宣言によって堀江貴文社長は一躍〝時の人〟となっていた。一億総国民注視の、前代未聞の劇場型買収劇が始まった。
私はこのとき興奮しながらこの顚末を追いかけるとともに、まったく異なるもう一つの取材をニッポン放送に申し込んでいた。1971年8月に開催された伝説的なフェスティバル「箱根アフロディーテ」についてである。
朝日新聞大阪経済部からアエラ編集部に異動して2年余り経ったころに遭遇したのがヒルズ族の乱だった。ライブドア、楽天、ヤフー、SBI、USEN、ソフトバンク、それにゴールドマン・サックス、リーマン・ブラザーズ、村上ファンド……。自分がたまたま構築していた情報源のネットワークを活用しながら、めまぐるしく展開するライブドアとニッポン放送・フジテレビジョンの攻防を追いかけた。次から次へと起きる奇想天外の展開は、当事者たちを、そして取材する私たちも痺れさせた。みなが劇的展開に酔う「刺激中毒」の状態に陥っていた。
その大騒動のさなか、別冊の「アエラ・イン・ロック」を2005年2月25日に発行したところ、これが望外の好セールスを収め、シリーズ化される運びになった。当時のアエラには私を含めてロック好きが数人いて、みんな、こういう趣味を生かした仕事をしてみたかったのだ。そこで私は1971年の箱根・芦ノ湖畔で開かれたロック・フェスティバル「アフロディーテ」を誌上で再現しようと試みた。
お目当ては、このフェスティバル出演のために初来日したピンク・フロイドである。
ピンク・フロイドは英国のアンダーグラウンドなサイケデリックシーンから1967年にレコードデビューした。最初期はリーダーのシド・バレットのワンマンバンドだったが、彼は薬物の過剰接種によって次第に奇行が目立ち始め、音楽活動がままならなくなった。シドの代わりにデビッド・ギルモアを入れたフロイドは、音楽的にはより前衛的に進化し、70年ごろから隆盛を極めるプログレッシブ・ロックの代表的存在になっていく。それと同時に、かつては才能あふれたシドの狂気に衝撃を受けたロジャー・ウォーターズによる「社会への違和感」や「人間の社会からの疎外」を主題とした詩の世界が、作品全体を貫く統一的なテーマとなっていった。
彼らが来日したのは、まさにそうした方向性が萌芽した『原子心母』(1970年作)を発表した直後であった。主催したのはラジオ局のニッポン放送。会場は箱根・芦ノ湖畔に成蹊学園が持つ寮の広大なゴルフ場跡地だった。
ライブドアとの抗争がいったん休戦し、フジテレビとライブドアの資本提携が発表された後の2005年6月14日、ニッポン放送でアフロディーテに関わった元制作部プロデューサーの佐々光紀にインタビューした。
「当時のニッポン放送は
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