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政界を揺るがすかに見えたヤフーBB情報漏洩への恐喝未遂事件

【7】ソフトバンクを脅した創価学会幹部/2004年

大鹿靖明 ジャーナリスト・ノンフィクション作家(朝日新聞編集委員)

 東京地検特捜部が今年8月、政府系金融機関の日本政策金融公庫からの融資の仲介に公明党国会議員の秘書らが関与した疑いがあるとして、貸金業法違反の疑いで議員会館の事務所などを家宅捜索した。公明党は、民主党政権時代を除き19年間も自公連立政権を組み、与党が長くなったことの「奢り」があるのかもしれない。

 この捜査の報に接し、公明党の支持基盤である創価学会幹部がかかわったソフトバンクへの恐喝未遂事件を思い出した。あれも異様な展開を見せた事件だった。

ヤフーBBで660万人の顧客情報漏洩、右翼関係者らを逮捕

ソフトバンクは2001年、ADSL事業に参入。月額料金は先行業者の半額以下に設定し、モデムを街頭で無料配布した=2002年冬、東京・渋谷、ソフトバンク提供
 2004年2月24日、インターネット接続サービス「ヤフーBB」の460万人分の顧客情報が外部に流出していたことが明らかになった。個人情報保護法が前年に成立したばかりで個人情報の取り扱いに関心が高まっていたときに、当時としては過去最大級の情報漏洩とあってマスコミは大騒ぎになった。

 この当時、ソフトバンクは2000年のITバブル崩壊によってベンチャー投資路線が行きづまり、代わって高速ネット通信に活路を見出していた。NTTが〝高速〟と触れ込んだほどISDN回線の通信速度は速くなく、その間隙を突いたソフトバンクが街頭で通信モデムを無料で配って強引に普及させようとしたのがADSLだった。

 確かにADSLはそれまでよりもずっと高速だった。通信業界のガリバーNTTを新参者のソフトバンクの下克上が揺さぶった。無料配布という奇策も手伝って契約者は急増し、かくいう私もその一人だった。NTTのISDNとは大違いで、インターネットがさくさく閲覧できることに驚いた記憶がある。

ヤフーはADSLで高速インターネット接続ができるカフェを各地に開いた=2001年7月11日、東京・原宿
 ところが、好事魔多しで、契約者情報が大量に流出してしまった(最終的には04年1月時点の全顧客情報660万人分が流出したという)。流出した情報の内容は、加入者や申込者、解約者の住所、氏名、電話番号、メールアドレスなどで、不幸中の幸いというべきか、クレジットカードの番号など個人の信用情報は別に格納されていて無事だった。

 しかも驚くべきことに、この不祥事を材料にソフトバンクからカネを脅し取ろうとしていた男3人を警視庁が恐喝未遂容疑で逮捕していたというのである。3人は、ヤフーBBの二次代理店を務めるコンサルティング会社エスエスティー(SST)の竹岡誠治社長、湯浅輝昭副社長、それに右翼団体の森洋・元代表だった。ヤフーBBの取引先という〝身内〟と右翼団体元代表という組み合わせには意外感があった。

顧客情報流出問題について記者会見するソフトバンクの孫正義社長=2004年2月27日、東京都港区
 事件発生直後のソフトバンク広報室の説明によると、ヤフーBBの一次代理店クラビットの取引先(二次代理店)がSSTだった。広報担当者は「SSTの湯浅さんがクラビットの役員に電話し、流出した個人情報をソフトバンクが買い取らないかと打診してきた」と説明していた。湯浅はまず2004年1月7日、8人分の情報を渡し、ソフトバンク側がこれを確認したところ、本物だった。

「恐喝」現場を録画しての逮捕劇。容疑者は創価学会幹部

 広報室長だった田部康喜はこのときのことを振り返ってこう語る。「子会社の法務部長が知るところとなって孫さんや私に連絡してきたんです。相手はA4判の紙に何人かの個人情報を書いて寄越し、『買わないか』と持ち掛けてきたんです。これはおかしいと思い、早速孫さんに伝えて対策チームを設けました」。

 孫は、個人情報の流出と金銭の要求を知ると即座に、「脅しには屈せず、犯人には1円たりとも払わない」「迅速に外部に公表し、嘘をつかない」「情報流出による二次災害を起こさない」の3方針を決め、1月19日には警視庁に通報した。ソフトバンクは警視庁と相談のうえ、話し合いに応じるふりをして1月21日、湯浅を招き寄せた。

 法務部長が応対したが「法務部長の名刺だと相手に怪しまれると思い、急遽、別の肩書の名刺を作って持たせた」(田部)という。応接室に隠しカメラと録音機を用意し、「データ流出を抑えるにはカネを払えばいい」と湯浅が要求する一部始終を押さえた。このとき湯浅は130人分のリストを紙に印字して持ってきた。

 ソフトバンクは警視庁の指示に従い、同23日にも都内のホテルで湯浅と面談し、彼が寄越したプラスチックケース状のもの(中に顧客情報を収めたDVDが入っていたと思われる)をそのまま警察に提出した。26日には湯浅から再度、カネの要求があった。ソフトバンクはすぐに警察に被害届を提出し、湯浅が真っ先に逮捕され、やがて芋づる式に竹岡や右翼の森も捕らえられた。

「ヤフーBB」のコールセンターでは、顧客情報などの持ち出し防止のため、持ち物を中身の見える透明な袋に入れ、ICカードでゲートを開けて出入りするようになった。制服にはポケットがない=2005年2月18日、東京都内
 彼ら容疑者の素性が明らかになると、事件は別の顔を見せ始めた。SSTの社長の竹岡と副社長の湯浅はともに創価学会の幹部だったのである。

 竹岡は創価学会副男子部長や創価班委員長、聖教新聞広告局担当部長などを経て創価学会豊島戸田分区の副区長だった。湯浅は聖教新聞の販売店主などを経て函館五稜郭圏の副圏長だった(ともに事件発覚と同時に辞任)。しかも、竹岡は共産党の宮本顕治委員長宅盗聴事件の実行犯の一人でもあったから大騒ぎになった。もはや、単純な個人情報流出という事件ではなかった。ソフトバンクの広報担当者も「政界を揺るがすかもしれません」と興奮気味に話していた。

【左】盗聴事件があった日本共産党の宮本顕治委員長宅付近。電柱には電話用の端子函が取りつけられ、端子ボックスの中に盗聴器らしきものが仕掛けられていたという【右】盗聴器が取り外されて、コードが残ったままの電柱と端子ボックス=いずれも1970年7月、東京都杉並区高井戸
 宮本盗聴事件とは、東京都杉並区の宮本委員長宅近くの電話線に1970年、発信式の盗聴器がしかけられていたことが判明したというもので、その当時はだれの仕業かわからなかったが、後に盗聴にかかわった創価学会顧問弁護士の山崎正友が一部始終を暴露して創価学会の関与が明らかになった。1970年当時、大きな問題となっていた公明党・創価学会の言論出版妨害事件について、同事件について批判していた共産党の動きを探ろうと、宮本宅を盗聴したのである。

日本共産党の宮本顕治委員長宅の盗聴事件をめぐる第1回口頭弁論に出廷する山崎正友元創価学会顧問弁護士=1980年10月31日、東京地裁
 盗聴を主導した山崎に取材すると、「1969年ごろ、民青や学生運動の動向を探ろうと裏の組織を作ったが、竹岡はそのときからのメンバーで、ずっと裏の仕事をしてきた。宮本盗聴がバレたときは、ほとぼりを覚ますため、いったん地方に逃がした」などと詳細を話してくれた。

 取材中ずっとボディーガードのような屈強な男性が背後に控えているのが気になり、「秘書の方ですか」と山崎に聞くと、「四六時中、こうやって見張られているんだ。家の前にはずっと車が止まり、中から監視されている」と彼は打ち明けた。これには取材しているこっちも驚愕した。組織の報復なのだろう。

盗聴事件も実行していた創価学会幹部は、自民党実力者らと昵懇

 念のため、創価学会広報室に竹岡の宮本盗聴事件関与について問い合わせると、広報担当の重川利昭がわざわざ築地の朝日新聞東京本社まで説明にやってきた。重川は「共産党は、宮本盗聴事件は創価学会の組織的犯行と言っていますが、あれは組織的犯行ではなく、『創価学会幹部らによる犯行』という表現が正しい」とは言うものの、あっさり竹岡の関与を認めた。変なごまかしは通用しないと思ったのだろう。

 私は当時所属していた週刊誌のアエラで「ヤフーBBと創価学会の『接点』」という記事で本件を報じたが、週刊朝日や週刊新潮、週刊文春など各週刊誌がほぼ一斉に同様の内容――ソフトバンクを恐喝しようとした男が創価学会の謀略組織の一員で、かつて宮本委員長宅盗聴事件に関与していたこと――を報じた。逆に新聞は産経が軽く言及する程度で、朝日も読売、日経も創価学会については触れなかった。週刊誌に異動して半年過ごして、新聞の事なかれ主義を痛感した。

創価学会総本部(Manuel Ascanio / Shutterstock.com)
 創価学会広報室の重川は「竹岡は永田町界隈で噂を聞くけれど、何を考えているのかよくわからない」と、やや突き放したような言い回しで語っていた。確かに竹岡にはそう思わせるようなところがあった。彼はSSTと同じ所在地(千代田区二番町)に2000年、循環社会研究所というもう一つの会社を設立し、同社は「循環型社会形成推進基本法にいう『循環型社会』形成のための環境対策技術の開発・育成」を設立目的にうたっていた。循環型社会形成推進基本法は、与党になったばかりの公明党が制定に熱心で、ゴミの減量や廃棄物のリサイクル、再生エネルギーの促進などを定めていた。

 この循環社会研究所の取締役の一人で、なおかつ「竹岡とは30年来の付き合い」という創価学会の幹部でもある人物が取材に応じてくれた。「自民党と公明党、保守党で循環型社会推進議員連盟という議連ができたんです。私たちは市町村むけに環境・エネルギー政策のコンサルタントや調査の受託をしようとしていました」。

野中広務氏
 議連は自民党の橋本龍太郎が会長で、公明党の浜四津敏子が会長代行だった。顧問が当時自民党の実力者だった野中広務で、野中は自民党が苦戦する選挙で創価学会の支援を得ようと竹岡に交渉を依頼するような仲だった。取材を進めていくと、創価学会幹部が、自民党の有力者や公明党議員への渉外を通じてビジネスのネタを見つけようとしている様子がわかってきた。

 ただし、1999年に聖教新聞社を辞めたばかりの竹岡に環境技術やノウハウがあったとは思えない。30年来の友人の取締役も「竹岡はDVDすら何のことかわかっていない」と言っていた。彼は事件を知って「竹岡は乗せられたんだよ」と漏らしていた。

 確かに東京地検は2004年3月16日、竹岡を処分保留で釈放した。各紙の公判報道によると、主犯格は森で、森が竹岡に相談し、竹岡が森に「ソフトバンクに詳しい」と湯浅を紹介したというのが真相のようだ。

 竹岡は自著『サンロータスの旅人』(2010年、天櫻社)で「2004年2月、謂れなき罪で二十二日間、身柄を拘束された。夜を日に継ぐ取り調べが続き、心身とも憔悴した」などと事件について触れている。なお同書には野中広務が発刊の辞を寄せている。

そもそもはソフトバンクの情報管理の甘さが狙われた

 竹岡に事件のことを尋ねると、「あの事件は、個人情報保護法の施行を直前に控えて国策捜査的なことがありました。与野党の駆け引きが激しかったころのことですし、政治家を含めてご存命の方々も結構いらっしゃるので取材には応じられません」ということだった。ただし、「そちらでお調べになってお書き頂ければと存じます。私のことを取り上げて深く掘り下げることには異存ありません」と話した。

   PC Japan
 事件の報道が沈静化した2004年5月、警視庁は、ソフトバンク系パソコン誌「PC JAPAN」のライターで、ソフトバンク傘下のITメディアでも記事を書いていた男(ペンネーム「BEAMZ」)と森の義理の息子を恐喝未遂容疑で逮捕した。さらに同年7月、ソフトバンクBBで働いていた元派遣社員(ペンネーム「黒川かえる」)を不正アクセス禁止法違反の疑いで書類送検した。BEAMZは31本の記事を、黒川かえるも1度、それぞれ「PC JAPAN」に寄稿していた。

 かくして個人情報流出の経緯が明らかになった。

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