人柄謙虚な医学界トップの思い出
2021年10月06日
金澤一郎氏は2016年1月、74歳でこの世を去ったが、彼は筆者と同年代。日比谷高校では同じクラス(1957年に日比谷高校11ルーム、1年1組で席を同じくした)の親友だった。彼の田園調布の家にはよく遊びに行ったし、彼もまた、筆者の鎌倉の家をよく訪ねてくれた。
東京大学には2人とも、1960年に進学したが、彼は医学部へ、筆者は経済学部へ進むことになった。彼は卒業後、筑波大学教授を経て、東大医学部教授に就任。筆者は小宮隆太郎教授のゼミナールを経て、1965年に大蔵省(現財務省)に入省し、34年間大蔵省に務める。最終的には財務官に就任し、為替問題等に注力することになった。
金澤一郎氏は医学界のトップを走り、皇室医務主管となり、皇族の医療に携わる。医務主管として、天皇、皇后両陛下の内科系の診療を担当し、1993年に皇后様に言語障害が表れた際の治療にあたっている。皇室医務主管として、10年間勤務し、侍従職御用掛も務めるなど、神経内科の第一人者で、パーキンソン病など難病の研究に尽力していた。
1997年4月から1999年3月まで、金澤氏は東京大学医学部付属病院の院長を東大教授として2年間勤めている。その後、2002年3月に東京大学を定年退職し、同年4月より前述した皇室医務主管に就任した。同時に、国立精神・神経センター神経研究所所長にも就任していた。数々の公職で多忙だったにもかかわらず、筆者の義妹が神経症に掛った時は、友人として、丁寧に診察し対応してくれたのには、深く感謝したものだった。
2002年5月には、日本神経学会の理事長に就任し、名実ともに神経内科の専門家としてトップに立ったのだった。
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