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衆院選は、小選挙区制のままでよいのか?

世襲の優先、政策通議員の減少…数多い課題を考える

山下一仁 キヤノングローバル戦略研究所研究主幹

 小選挙区制が導入されて25年が経った。金権政治打破と二大政党制の実現が、導入の主な目的だった。達成されたものもあるし、達成されなかったものもある。また、逆に、新たに引き起こした問題もある。今回の衆議院選挙の争点ではないが、改めて小選挙区制の功罪を考えたい。

なぜ小選挙区制が導入されたのか?

リクルート疑惑の責任を取り、退陣を表明する竹下元首相(1989年撮影)拡大リクルート疑惑の責任を取り、退陣を表明する竹下元首相(1989年撮影)
 小選挙区制導入のきっかけとなったのは、1988年朝日新聞のスクープに端を発したリクルート事件である。この事件で竹下内閣は倒れた。金権政治が問題視され、なかでも当時の選挙制度が政治に金がかかりすぎることの大きな原因だとされた。

 当時の中選挙区制は広い選挙区から3~5人の議員を選出するものだった。例えば、現在は5つの小選挙区が存在する岡山県は、二区に分かれていた。旧岡山一区、二区とも定員5名だった。うち自民党は通常3つの議席を確保していたが、1名が落選し2議席にとどまるときもあった。社会党・民社党・公明党が固定された支持層を持っていると自民党議員たちが考えれば、事実上選挙は、保守票を自民党3議員がいかに取り合うかという争いとなる。自民党はそれ以外の議員を公認しなかった。つまり自民党内の議員同士が2~3の議席を巡り当落をかけた競争相手になる。野党候補の票が伸びなくても、他の自民党議員が票を取り過ぎれば、落選する可能性がある。

 とりわけ、旧岡山二区では、加藤六月と橋本龍太郎による“六龍戦争”と呼ばれる激しい選挙戦が展開された。二人にとって、単に当落を心配するだけでなく、どちらがトップ当選して自民党内の地位を向上させることができるかも、重要だった。同じく、旧群馬三区における福田赳夫と中曽根康弘という派閥の領袖間の争いは、上州戦争と呼ばれた。このような争いは、多くの選挙区で展開された。

 総理総裁を目指している自民党の各派閥の長にとって、自民党が敗北したとしても、自己に属する候補者が当選し、他派閥の候補者が落選すると、総裁選挙で有利となる。中選挙区制の下では、自民党と他党の候補者との争いではなく、自民党内の争いだったのである。これが派閥を中心として激しい金権政治を生んだ。派閥の力となる国会議員の“数”を持つためには、“金”が必要だった。その典型が田中角栄率いる木曜クラブ(田中派)だった。「数は力」だったのだ。

 また、多数の有権者の支持がなくても20%程度の票で当選できるので、一部の地元利益団体の固定票を確保することが優先されがちになるし、その見返りに、政権党である自民党議員は地元への利益誘導を図ろうとするという批判も行われた。選挙制度が既得権者に有利に働いていたというのだ。

 これに対して、小選挙区制であれば、同じ自民党候補同士の争いは起きず、派閥本位ではなく、政策本位、政党本位の選挙が行われ、金権政治ではなくなるはずだと期待された。また、投票者の半数近くの票を得なければ当選できないので、特定の利益団体の支持だけなく、組織されていない有権者からの支持も必要になる。このため、特定の利益団体より市民全体の利益が優先されるようになると考えられた。

 さらに、長期間に及ぶ自民党支配に倦んでいた人たちに対しては、政権交代が容易になるという主張もされた。ただし、当初は、70年代のロッキード事件や三角大福中の争いからリクルート事件まで続く金権政治に終止符を打ちたいという気持ちが強かったように思われる。

小選挙区制導入を後悔する河野洋平氏ら

河野洋平氏(1997年撮影)拡大河野洋平氏(1997年撮影)
 こうして、1990年代初め、選挙制度改革を含めた政治改革は、最大の政治課題となった。これを巡り、自民党内でも、離党者を出すなど激しい対立が起こった。混乱の末、1993年自民党は下野し、日本新党の細川護熙を総理とする連立政権が成立した。

 野党の自民党総裁として連立政権の細川護熙総理とのトップ会談で小選挙区制の導入を行った河野洋平元衆議院議員は、導入から20年後の2015年、「自民党が変質した理由の一つに『小選挙区制』の問題がある。私は小選挙区制の導入に関わった人間ですが、“贖罪”の意味を込めて、小選挙区制度の導入が悪かったのではないかという気持ちを持ち続けているんです」と述べている。後悔しているのは、河野洋平氏だけではない。ある有力議員は、「私は小選挙区制がよいと思っていったん自民党を離党までしたが、今となっては本当によかったのだろうか」と、私に率直な感想を述べている。


筆者

山下一仁

山下一仁(やました・かずひと) キヤノングローバル戦略研究所研究主幹

1955年岡山県笠岡市生まれ。77年東京大学法学部卒業、農林省入省。82年ミシガン大学にて応用経済学修士、行政学修士。2005年東京大学農学博士。農林水産省ガット室長、欧州連合日本政府代表部参事官、農林水産省地域振興課長、農村振興局整備部長、農村振興局次長などを歴任。08年農林水産省退職。同年経済産業研究所上席研究員。10年キヤノングローバル戦略研究所研究主幹。20年東京大学公共政策大学院客員教授。「いま蘇る柳田國男の農政改革」「フードセキュリティ」「農協の大罪」「農業ビッグバンの経済学」「企業の知恵が農業革新に挑む」「亡国農政の終焉」など著書多数。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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