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「決められない」民主党政権を象徴した政治家 脱原発に導けず

【8】枝野幸男経産相の残念な思い出/2011~12年

大鹿靖明 ジャーナリスト・ノンフィクション作家(朝日新聞編集委員)

 立憲民主党の枝野幸男代表は旧民主党政権時代、官房長官や経済産業相など政府の要職にあった。とりわけ、野田政権発足後、1年余のあいだエネルギー政策を所管する経産相を務め、原子力政策を大きく変えることのできる地位にいた。にもかかわらず、重要な政策判断を下さねばならないときに政治的な胆力に欠けた。「決められない政治」と揶揄された民主党政権を象徴する政治家のひとりだった。

拡大就任後、初の記者会見をする枝野幸男経産相=2011年9月12日

急きょ入閣、大臣諮問機関の委員会構成に関心示さず

 枝野は、2011年3月11日の東日本大震災発災時の菅政権の官房長官として政府の原発事故対応にかかわったが、菅直人首相が民主党の党内抗争のすえ退陣し、野田政権が発足したころは、政府のポストを離れて充電するつもりだった。それが一転して11年9月に経産相として入閣することになったのは、鉢呂吉雄経産相が「放射能つけちゃうぞ」発言などの失言によって在職わずか9日間で同相を追われたからだった。

 枝野本人は当初、経産相を引き受ける気はなかった。

 私の2012年12月のインタビューで彼は「野田総理に(経産相就任を)いわれたとき、福山さん(哲郎元官房副長官)を推薦した」と打ち明けた。福山も「枝野さんから『総理に福山さんの名前を出しましたよ』と聞かされましたが、私自身は野田総理から打診をうけたことはありません」と話している。

 自身の代わりに福山を推挙したものの、枝野によると、野田が枝野の「早く原発をやめるべきだ」「従来型の経済成長はこれからなりたたないと思っている」といった考えをくんでくれたので就任を引き受けることになった。つまり枝野は二つ返事で経産相に就任したのではなかった。こうした経緯を本人から聞かされると、「やりたくて引き受けたわけではない」と言い訳めいて聞こえ、最初から腰がひけていたように思えた。

 前任の鉢呂はこの当時、未曽有の事故をひきおこした原発には頼れないという問題意識を持っていた。

 経産省は、大臣の諮問機関である総合資源エネルギー調査会傘下にある「基本問題委員会」を開き、今後の電源構成を検討する手筈だった。鉢呂は資源エネルギー庁の官僚が持ってきた委員会の人選案が原発推進派に傾いていたため、「経産省の原子力政策に批判的な人も半分程度入れてほしい」と注文をつけ、推進派と反対派がほぼ同数になるような委員会構成を考えていた。

 鉢呂は失言によってあわただしく9日間で退任することになるが、「批判的な人を50%入れた名簿にメモをつけて枝野さんに渡した」という。「結局、1か月後にメンバーが決まったのですが、3分の1程度しか批判的な人は入らなかったんです」と鉢呂は打ち明ける。

拡大経産相の諮問機関である総合資源エネルギー調査会の基本問題委員会は発電量に占める原発比率を討議した。25人の委員のうち脱原発派は3分の1程度だった=2012年5月9日
 枝野に引き継いだはずの基本問題委員会の構成が大きく変わったのは、枝野によれば、「人数が変わったのは、打診したのに断られたとか、そういうことだった」といい、「そんなに大事なこととは思っていない」と言った。

 「法律上、総合資源エネルギー調査会は意見を言う場であって、決める場ではないと思っていた。法律上、エネルギー基本計画は総合エネ調の意見を聞いて大臣が決める制度だとわかっていたので、両派でどんどん喧嘩してくれ、と。そこでまとまるはずもないし、まとめる気もないし」

 決めるのは自分だから委員の構成はどうでもいいと言わんばかりだった。


筆者

大鹿靖明

大鹿靖明(おおしか・やすあき) ジャーナリスト・ノンフィクション作家(朝日新聞編集委員)

1965年、東京生まれ。早稲田大政治経済学部卒。ジャーナリスト・ノンフィクション作家。88年、朝日新聞社入社。著書に第34回講談社ノンフィクション賞を受賞した『メルトダウン ドキュメント福島第一原発事故』を始め、『ヒルズ黙示録 検証・ライブドア』、『ヒルズ黙示録・最終章』、『堕ちた翼 ドキュメントJAL倒産』、『ジャーナリズムの現場から』、『東芝の悲劇』がある。近著に『金融庁戦記 企業監視官・佐々木清隆の事件簿』。取材班の一員でかかわったものに『ゴーンショック 日産カルロス・ゴーン事件の真相』などがある。キング・クリムゾンに強い影響を受ける。レコ漁りと音楽酒場探訪が趣味。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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